ょうがな?」
「どうも不思議だ。まさにその通り」紋太郎は思わず腕を組んだ。
「同じ作者の同じ名画、喜撰法師の一幅は現在旦那様が持っておられる筈じゃ。何も驚かれることはない。布呂敷包みの細長い荷物。膝の上のその荷物。それが喜撰様でございましょうがな。……そうして旦那様は知行所で、そのご家宝の喜撰様を金に代える気でござりましょうがな」
「むう」と紋太郎は思わず唸ったが、
「ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは邸《やしき》近くの町人であろう。それで事情を知っているのであろう」
「はいさようでございますよ。旦那様のすぐお側《そば》に住んでいる者でございますよ」
「ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?」
「ほんのお側でございます旦那様のお邸内で」
「莫迦を申せ」
 と紋太郎は苦々しく一つ笑ったが、
「邸の内には用人とお常という飯煮《めした》き婆。拙者を加えて三人だけじゃ」
「へへへ」
 と老人はそこでまた気味悪く笑ったが、
「どう致しましてこの老人《わたくし》は、ご尊父様の時代からずっとずっとお邸内に住居しているものでございますよ」
 ははあこいつ狂人《きちがい》だな。……紋太郎は気が付いた。そこでガラリ調子を変え、
「ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?」
「貧乏神と申します」
 いったかと思うと老人は煙りのように揺れながらス――とばかりに立ち上がった。
「私はな」と老人はいいつづける。「永らくの間お前の所で、厄介になっていた貧乏神じゃ。随分居心地よい邸であったよ。で、立ち去るのは厭なのじゃが、そういう勝手も出来ないのでな、今日を限りに立ち退《の》こうと思う。……お前の所へもこれからはだんだん好運が向いて来ようよ。もっとも」
 といって貧乏神は例によって気味悪くニタリとしたが、
「時々お目にはかかろうも知れぬ。私はご隣家へ移転《ひっこ》すからの」
 こういい捨てると貧乏神はクルリと紋太郎へ背を向けた。それからスタスタ歩き出した。
「ははあなるほど貧乏神か。いかさまそういえばあの風態に見覚えがあると思ったよ。絵にある貧乏神そっくりじゃ。父の代から住んでいたと? アッハハハこれももっともだ。父の代から俺の家はだんだん貧乏になったのだからな。何これから運が向くって? ほんとにどうぞそうありたいものだ。……おや!」
 とにわかに紋太郎は吃驚《びっくり》したように眼を見張った。


    刺青の女賊

 それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。
 もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の背後《うしろ》から小粋な男が従いて来た。だんだんこっちへ近寄って来る。「貧乏神などと馬鹿にしてもさすがは神と名が付くだけに飛天隠形《ひてんおんぎょう》自在と見える」
 学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。
 若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。
 ふと女を見た紋太郎は、
「おや」といってまた眼を見張った。
 その時プ――ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き除《の》けたその拍子にツルリと袖が腕を辷り、露出した白い二の腕一杯桜の刺青《ほりもの》がほってある。
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥《りゅうべつ》したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
 やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」

「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒《ふきやづつ》を持っている。部屋へ通るとその後から三右衛門が嬉しそうに従《つ》いて来た。
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で何程《いかほど》に売れましたかな?」
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括《たばね》嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰《しか》めながらさも不安そうに云うのであった。
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業《はやわざ》でな。あれには俺も感心したよ」
 紋太郎は一向平気である。
 余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
 紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」


    二尺八寸の吹矢筒

「何がめでとうござりましょうぞ」
 三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう」
「まあ見ろ三右衛この筒を」
 こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょい[#「ひょい」に傍点]と眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの丑《うし》、俺が吹矢を好きだと知ってか、わざわざ持って来てくれて行った。知行所の百姓は感心じゃ。俺を皆《みんな》可愛がってくれる。……これは素晴らしい吹矢筒だ。第一大分古い物だ。木肌に脂《あぶら》が沁み込んで鼈甲《べっこう》のように光っている。俺は来る道々|験《ため》して見たが、百発百中はずれ[#「はずれ」に傍点]た事がない。嘘だと思うなら見るがよい」
 側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
 庭の老松《おいまつ》に一羽の烏が伴鳥《ともどり》もなく止まっていたが、真っ黒の姿を陽に輝かせキョロキョロ四辺を見廻している。
 紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を宛《あて》たかと思うと、ヒュ――ッと風を切る音がして一筋の白光空を貫きそれと同時に樹上の鳥はコロリと地面へ転げ落ちた。
 いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見《みば》は上品、有難い獲物を手に入れたぞ」
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解《いいわけ》したものであろう」
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
 紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
 三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を……」
 三右衛門は容易に手を出さない。
 紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。……何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を掠《す》られたので俺もひどく悄気《しょげ》たものさ。といってノメノメ帰られもしないで、知行所へ行って見るとどうした風の吹き廻しか、いつもは渋る嘉右衛門が二つ返辞で承知をしてくれ、いい出した倍の二百両というもの融通をしてくれたではないか。その上でのいい草がいい。――今年はご出世なさいますよとな。……で、俺が何故と訊いて見ると、何故だかそれは解りませぬと、こういって澄ましているではないか。……三右衛安心をするがいいぞ。どうやら貧乏の俺の家もこれから運に向かうらしい。貧乏神めもそういったからの」

 こうして春去り夏が来た。その夏も逝《い》って秋となった。
 小鳥狩りの季節となったのである。
 ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活《くらし》振りは案外|暢気《のんき》というものであった。
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
 時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対《あべこべ》に慰めるのであった。
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命《いのち》の糧《かて》でございますもの」
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」


    大御所家斉公

 ある日、紋太郎は吹筒を携《たずさ》え多摩川の方へ出かけて行った。
 多摩川に曝《さら》す手作りさらさらに何ぞこの女《こ》の許多《ここだ》恋《かな》しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
 こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸《ひわ》、鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+葛」、第3水準1−87−81]《かり》などがはち切れるほどに詰まっていた。
 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
 その一群れは足並揃えて粛々《しゅくしゅく》とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美《きらびやか》の服装《よそおい》である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌《かお》は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付《たっつけ》、揃いの笠で半面を蔽い、寛《くつろ》いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
 紋太郎は心中|審《いぶか》りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
 鷹狩りの群れは近寄って来る。
 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金《きん》蒔絵《まきえ》されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
 紋太郎はハッと呼吸《いき》を呑んだ。持
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