門である。キチンと坐ると主人の顔をまぶしそうに見守ったが、
「賊がはいったようでございます」
「うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ」
「すぐお出掛けになりますか?」
「専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。……もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう」
三百石の知行取り、本所割下水に邸《やしき》を持った、旗本の藪紋太郎は酷《ひど》く生活《くらし》が不如意であった。
普通旗本で三百石といえば恥ずかしくない歴々であるが、紋太郎の父の紋十郎が、その時代の風流男で放蕩遊芸に凝ったあげく家名を落としたばかりでなく、山のような借金を拵えてしまい、ハッと気が付いて真面目になったところでコロリ流行病《はやりやまい》で命を取られたので、家督と一緒に借金証文まで紋太郎の所へ転げ込んだ始末。余り嬉しくない証文ではあるが、総領の一人子であって見れば放抛《うっちゃ》っておくことも出来なかった。
親に似ぬ子は鬼っ子だとある心理学者がいったそうであるが藪紋太郎は実のところ少しも親に似ていなかった。とはいえ決して鬼っ子ではなく鳶《とび》の産んだ鷹《たか》の方で遊芸は好まず放蕩は嫌い、好きなものは武道と学問。わけても陽明学を好み、傍ら大槻玄沢《おおつきげんたく》の弟子杉田|忠恕《ちゅうじょ》の邸へ通って蘭学を修めようというのだから鷹にしても上の部だ。
二十八歳の男盛り。縹緻《おとこぶり》もまんざら捨てたものではない。丈《せい》は高く肉付きもよく馬上槍でも取らせたら八万騎の中でも目立つに違いない。
貧しい生活《くらし》をしているにも似ず性質はきわめて快活で鬱勃《うつぼつ》たる覇気も持っていたが、そこは学問をしただけに露骨にそんなものを表面《おもて》へは出さない。
「ご免」
と紋太郎は声を掛けた。奥でガヤガヤ話し声はするが誰も玄関へ出て来ない。「頼む」ともう一度声を掛けた。――と、今度は足音がして書生がひょっくり顔を出したが、
「これはご隣家の藪様で」
「昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?」
「はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが……」
「おおそれなれば何より重畳《ちょうじょう》。そうして賊は捕らえましたかな?」
「いえ」
と云った時、奥の方から専斎の声が聞こえて来た。「どなたかおいでなされたかな?」
ヌッと現われた五十恰好の坊主。これが主人の専斎で、奥医師で五百俵、役高を加えて七百俵、若年寄直轄で法印の官を持っている。
「おおこれは藪殿で。ひどい目に遭いましてな。が、まずまずお上がりくだされ」
「さようでござるかな。ではちょっと」こういうと紋太郎はつと上がった。隣家ではあり碁友達でもあり日頃から二人は親しいのであった。
「早速のお見舞い有難いことで」
座が定まると改めてこう専斎は礼を述べた。が続いて物語った盗難の話は紋太郎の好奇心を少からず唆《そそ》った。
――勝《すぐ》れて美しい若い女を小間使いとして雇い入れたところ、思いがけなくもその女が二の腕かけて背中一杯朱入りの刺青《ほりもの》をしていたそうで、計らず見付けた女中の一人が驚いて専斎へ耳打ちしたので、専斎も大いに仰天し、暇をくれたのが昨夜のこと。その夜更けて起こったのが盗難騒ぎだというのである。
土佐の名画喜撰法師
「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。
「さよう菊でございますよ」
専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」
「で、奪われた品物は?」
「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」
「ほほう」とこれには紋太郎も吃驚《びっくり》したように目を見張った。
「では小町と黒主をな?」
「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」
専斎は今日は言葉少い。ひどく落胆《きおち》しているらしい。
自宅《うち》へ帰って来た紋太郎はニヤニヤ笑いを洩らしている。皮肉の笑いとも受け取られ笑止の表情とも見受けられる。
ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。
「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」
云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。
「旦那様」
と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘《たちばな》奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」
「さては無頼者《やくざもの》でござりますな」
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯《じゃくおう》と見え声が若い。
と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「何程《いかほど》のお値打ちがございましょうな?」
「専斎殿の鑑定《めきき》によれは、捨て売りにしても五十両。好事家《こうずか》などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」
「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。
尾行の主は?
「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも皆済《かいさい》することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。
その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
彼は渋面を作っている。足が疲労《つか》れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行《つけ》られているのであった。
彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢《きたな》らしい爺さんが歩いている。
穢さ加減が酷《ひど》いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。
ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ[#「ずぶ」に傍点]若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
頭はおおかた禿げているが諸所《ところどころ》に白髪《しらが》がある。河原に残った枯れ芒《すすき》と形容したいような白髪である。黄色い色の萎《しな》びた顔。蛇のように蜒《うね》っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月《むつき》だというのに手に渋団扇《しぶうちわ》を持っている。脛から下は露出《むきだし》で足に穿《は》いたのは冷飯草履《ひやめしぞうり》。……この風態で尾行《つけ》られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦《がね》を掛けているのは何んの呪禁《まじない》だか知らないけれど益※[#二の字点、1−2−22]仁態を凄く見せる。それで時々ニタリと笑う。いかさまこれでは魘《うな》されようもしれぬ。
「こいつどうぞしてマキたいものだ」
紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。
大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。
ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。
「おおそうだ、やり過ごしてやろう」
思案を決めると紋太郎は道側《みちばた》の石へ腰をおろした。それから懐中《ふところ》から煙管《きせる》を取り出し静かに煙草をふかし出した。
貧乏神
行き過ぎるかと思いきや、その奇怪な老人はズッと側へ寄って来た。紋太郎と並んで切り株へノッソリとばかり腰かけたのである。
それからゴソゴソ懐中を探ると鉈豆煙管《なたまめぎせる》を取り出した。それをズッと鼻先へ出し、
「お武家様え、火をひとつ」
案に相違して紋太郎は少からず閉口したものの貸さないということも出来ないので無言で煙管を差し出した。老人はスバスバ吸い付ける。
「へい、お有難う存じます」
声までが無気味の調子である。
二人は黙って腰かけている。
「どうもこいつは驚いたな。除《よ》けても除けても着きまとって来る。まるで俺の運命のようだ」
紋太郎は不快に思いながら咎めることも出来ないのでやはり黙って腰かけていた。
と、老人が話しかけた。
「熊谷《くまがや》へおいででございますかな。それはそれはご苦労のことで。それに致しても三時立ちとは随分お早うございましたなあ」
「何?」
といったが紋太郎これにはいささか驚いた。
「いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?」
「へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で」
「いかにもそういうこともあった」
「ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を――見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ」
「おおおお、いかにもその通りじゃ」
「盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございまし
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