っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。
鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天《すいてん》の大鵬《たいほう》と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
家斉公はまじろぎ[#「まじろぎ」に傍点]もせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と返辞《いら》えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
近習の捧げる重籐《しげどう》の弓をむず[#「むず」に傍点]と握って矢をつがえたが、二間余りつと[#「つと」に傍点]進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然《かつぜん》たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっ[#「ひょうふっ」に傍点]と切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座《かしこ》まる。
大鵬空に舞う
「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。
「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」
「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」
「は、はっ」
と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を屹《きっ》と構えて空へ向ける。さすがは大御所秘蔵の名鳥、プッと胸を膨張《ふくら》ませ、肩を低く背後《うしろ》へ引く。気息充分籠もると見て一度に颯《さっ》と切って放す。と、あたかも投げられた飛礫《つぶて》か、甲乙なしに一団となり空を斜めに翔《か》け上った。
家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、固唾《かたず》を呑んで眺めている。その眼前で五羽の鷹、大鵬を乗り越し上空へ上るや一時にバラバラと飛び散ったがこれぞ彼らの慣用手段で、一羽は頭、一羽は尻、一羽は腹、二羽は胴、化鳥の急所を狙うと見る間に一度に颯と飛び掛かった。
ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは糠喜《ぬかよろこ》びで、五羽の鷹は五羽ながら、投げられたように弾き飛ばされ、空をキリキリ舞いながら枯れ草の上へ落ちて来た。
五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも大鵬《おおとり》は悠然と同じ所に漂っている。
物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。
「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」
と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず咳《しわぶき》もせず固くなってかたまっている。これが陸上の働きならば旨《むね》を奉じて出る者もあろう。ところが相手は空飛ぶ鳥だ。飛行の術でも心得ていない限りどうにもならない料物《しろもの》である。ましてや弓も鷹も駄目と折り紙の付いた怪物である。誰が何んのために出て来るものか。
忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。
紋太郎は遙か彼方《あなた》から此方《こなた》に向かって一礼したが、その眼を返すと空を睨んだ。二尺八寸短い吹筒、つと[#「つと」に傍点]唇へ当てたかと思うと大きく呼吸《いき》をしたらしい。ぴかりと光った白い物。それが空を縫ったらしい。その瞬間に恐ろしい悲鳴が空の上から落ちて来た。と、その刹那空の化鳥が一つ大きく左右に揺れたが、そのままユラユラと落ちて来た。しかしそこは劫《ごう》を経た化鳥、地へ落ちて死骸を曝らそうとはしない。さも苦しそうに喘ぎ喘ぎ地上十間の低い宙を河原の方へ翔けて行く。そうしてそれでも辛うじて広い河原を向こうへ越すと暮れ逼《せま》って来た薄闇の中へ負傷《いたで》の姿を掻き消した。
どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。
「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。
「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の希望《のぞみ》であった。
「神妙の願い、追って沙汰する」
これが家斉の言葉である。
はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて差紙《さしがみ》が来た。恐る恐る出頭すると特に百石のご加増があり尚その上に役付けられた。西丸詰め御書院番、役高三百俵というのである。
邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。
奇怪な迎駕籠
ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
「大学頭《だいがくのかみ》林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」
これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者《つかい》はこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつら[#「うつらうつら」に傍点]と眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。誘拐《かどわか》しだ」
彼はじたばた[#「じたばた」に傍点]もがき出した。
そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな爺《じじい》を誘拐したところでたいしていい値《ね》にも売れまいにな。……精々《せいぜい》のところで別荘番。……おや今度は左へ廻った。……じたばた[#「じたばた」に傍点]したって仕方がない。生命《いのち》まで取るとはいわないだろう。……まあまあ穏《おとな》しくしていることだ。……そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」
臍《ほぞ》を固めた専斎はじたばた[#「じたばた」に傍点]するのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。
駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然|駕籠側《かごわき》にいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。
桃色の肉に黄金色の毛
こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが緩《のろ》くなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの幽《かす》かな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油を除《の》ける音。それからピ――ンと錠の音がした。
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
などと凄い話し声がする。と、ス――と扉《と》があいた。
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
と専斎は這い出した。朦朧《もうろう》と四辺《あたり》は薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。
その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀《ちいさがたな》を前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。
「ここへ」と老人はまた云った。
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