たにそんな事のある訳はない。その証拠には町奉行和泉守様のご様子が酷く悠長を極わめておられる」
 その時、和泉守が囁いた。
「藪氏、藪氏、こちらへござれ」
 裏門の方へ歩いて行く。
 裏門まで来て驚いたのは、さっきまで闇に埋ずもれていた高塀の内側が朦朧と光に照らされていることで、その仄かな光の色が鬼火といおうか幽霊火といおうか、ちょうど夏草の茂みの中へ蝋燭の火を点したような妖気を含んだ青色であるのが特に物凄く思われた。
「梯子を掛けい」
 と和泉守が、与力の一人へ囁いた。
「はっ」というと神谷というのがつかつか[#「つかつか」に傍点]と前へ進んだが、手に持っていた一筋の縄を颯《さっ》と投げると音もなくタラタラと高塀へ梯子が掛かる。いうまでもなく縄梯子だ。
「よし」というと和泉守はその縄梯子へ手をかけたが、身を浮かばせてツルツルと上がる。
 しばらく邸内を窺ったが、やがて地上へ下り立つと、
「藪氏、ちょっとご覧なされ、面白いものが見られます」
「は、しかし拙者など。……」
「私が許す。ご覧なさるがよい」
「それはそれは有難いことで。しからばご好意に従いまして」
「おお見られい。がしかし、驚
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