通りなどは一人もなく写山楼でも寝てしまったか燈火《ともしび》一筋洩れても来ない。
 厳《いか》めしい表門の前まで来て紋太郎は立ち止まった。
「まさかここからは忍び込めまい。……それでもちょっと押して見るかな」
 で、紋太郎は手を延ばし傍《そば》の潜門《くぐり》を押して見た。
「どなたでござるな?」と門内からすぐに答える声がした。「土居様お先供ではござりませぬかな? しばらくお待ちくだされますよう」
 しばらくあって門が開いた。
 もうその頃には紋太郎は少し離れた榎《えのき》の蔭に身を小さくして隠れていたが、
「土井様と云えば譜代も譜代|下総《しもうさ》古河で八万石|大炊頭《おおいのかみ》様に相違あるまいが、さては今夜写山楼へおいでなさるお約束でもあると見える。……それにしてもさすがに谷文晁《たにぶんちょう》、たいしたお方を客になさる」
 驚いて様子を見ていると、門番の声が聞こえて来た。
「何んだ何んだ誰もいねえじゃねえか。こいつどうも驚いたぞ。ははアさては太田ノ原の孕《はら》み狐めの悪戯《いたずら》だな」
「どうしたどうした、え、狐だって?」相棒の声が聞こえて来る。「気味が悪いなあ、締
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