過ぎるわい」
 などと紋太郎は呟きながら東の方へ足を運んだ。郁文館中学から医学校を通りそれから駒込千駄木町団子坂の北側を過《よぎ》りさらに東北へ数町行くと駒込林町へ出るのであるがもちろんこれは今日の道順《みち》で文政末年には医学校もなければ郁文館中学もあろう筈がない。そうして第一その時代には林町などという町名なども実はなかったかもしれないのである。
 一群れの家並を通り過ぎ辻に付いてグルリと廻ると突然広い空地へ出たが、その空地の遙か彼方《あなた》にあたかも大名の下邸のような宏荘な建物が立っていた。
 これぞすなわち写山楼である。
「うむ、ずいぶん宏大なものだな」
 紋太郎はそこで立ち止まりそっと四辺《あたり》を見廻した。別に悪事をするのではないが由来冒険というものはどうやら悪事とは親戚と見え同じような不安の心持ちを当人の心へ起こさせるものだ。
「さてこれからどうしたものだ? ……まずともかくももう少し写山楼へ接近して周囲《まわり》の様子から探ることにしよう」
 ――で、紋太郎は歩き出した。
 初夜といえば今の十時、徳川時代の十時といえば大正時代の十二時過ぎ、ましてこの辺は田舎ではあり人
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