スルリ擦り抜けて行こうとした。
「あいやしばらく」
と背後《うしろ》からその老武士が声を掛けた。
「どなたでござるな? どこへおいでになる?」
「はい妾《わたくし》はお霜と申し、秋篠局《あきしののつぼね》の新参のお末、怪しいものではございませぬ」
「新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?」
「はい、お局《つぼね》まで参ります」
「秋篠様のお局へな?」
「はい、さようでございます」
「それにしては道が違う」
「おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら」
「おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ」
「これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り……」
「おお急いで参るがよい。……ところで芝居はどの辺だな?」
「ただ今中幕が開いたばかり、団十郎の定光が連詞《つらね》を語っておりまする。早うおいでなさりませ」いい捨てクルリと方向《むき》を変えた。
「様子を見りゃあお留守居役か、いい加減年をしているのに、男か女かこの俺の見分けが付かねえとは甘え奴さ……秋篠というお局が満千姫様のご生母でそこのお部屋に何から何までお輿入れ道具が置いてあるそうな。信輔筆の六歌仙、在原業平《ありわらのなりひら》もそこにある筈だ……五つ六つこれで七つ。よし、この廊下を曲がるんだな」
七つ目の廊下を左へ曲がり、尚先へ走って行った。と、最初《とっつき》の廊下へ出た。それを今度は右へ曲がるとはたして立派な部屋がある。
「むう、これだな、どれ様子を」
板戸へピッタリ食い付いて一寸ばかり戸をあけたが朱塗りの蘭燈《らんとう》仄かに点り夢のように美しい部屋の中に一人の若い腰元が半分《なかば》うとうと睡りながら種彦らしい草双紙を片手に持って読んでいた。
「よし」と呟くとスーと開け部屋の中へ入り込んだ。
ハッと気が付いて振り返ると、
「どなた?」腰元は声を掛けた。
「はい妾《わたし》でございます」
小次郎はスルスルと近寄ったがパッと飛びかかって首を掴み、持って来た手拭いで猿轡《さるぐつわ》。扱帯《しごき》を解いて腕をくくり傍《そば》の柱へ繋《つな》いだが、奥の襖を手早く開けた。
グルリと見廻したがツカツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
奥の襖をまたあけた。
と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢|蠢《うごめ》く物がある。
「や、人か?」
と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは! 化物《ばけもの》だア!」
思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
部屋一杯の大きさを持ち黄金《こがね》の額縁で飾られた百鬼夜行の絵であった。
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
「其許《そもじ》は誰じゃ?」
と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこの妾《わし》こそ秋篠局のお末頭、其許《そもじ》のようなお末は知らぬ」
「南無三!」
とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を灯蔭《ほかげ》灯蔭と表の方へ走って行く。……
ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。……しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。……俺は今に乞食になろう……乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手な謡《うたい》を細々うたわなければならなかった。
こうして道中で年も暮れ、新玉《あらたま》の年は迎えたが、共に祝うべき人もない。
九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
遙かにも我来つるかな……思わず彼は呟《つぶや》いて涙を眼からこぼしたがもっともの
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