借金だけでも皆済《かいさい》することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。

 その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
 彼は渋面を作っている。足が疲労《つか》れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行《つけ》られているのであった。
 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢《きたな》らしい爺さんが歩いている。
 穢さ加減が酷《ひど》いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。
 ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ[#「ずぶ」に傍点]若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
 頭はおおかた禿げているが諸所《ところどころ》に白髪《しらが》がある。河原に残った枯れ芒《すすき》と形容したいような白髪である。黄色い色の萎《しな》びた顔。蛇のように蜒《うね》っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月《むつき》だというのに手に渋団扇《しぶうちわ》を持っている。脛から下は露出《むきだし》で足に穿《は》いたのは冷飯草履《ひやめしぞうり》。……この風態で尾行《つけ》られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦《がね》を掛け
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