門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘《たちばな》奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」
「さては無頼者《やくざもの》でござりますな」
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯《じゃくおう》と見え声が若い。
と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「何程《いかほど》のお値打ちがございましょうな?」
「専斎殿の鑑定《めきき》によれは、捨て売りにしても五十両。好事家《こうずか》などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」
「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。
尾行の主は?
「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の
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