……」
 紫錦《しきん》と伊太郎《いたろう》は歩いて行った。
 帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨《かりん》畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]は聞えなかった。
 穂麦《ほむぎ》の芳《かんば》しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映《は》えなかった。
「美しい晩、私は幸福《しあわせ》だ」
「妾も楽しうござんすわ」
 畦道《あぜみち》は随分狭かった。肩と肩とを食《く》っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
 いつともなしに寄り添っていた。
 やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
 それで二人は舟へ乗った。
 湖上には微風が渡っていた。櫂《かい》で砕《くだ》かれた波の穂が、鉛色に閃《ひら
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