せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸《くぐりど》があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。

12[#「12」は縦中横]

「爺つあん」はすっかり疲労《つかれ》てしまった。
 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
 で、布団を胸へかけ、静かに睡《ねむり》へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆《やといばあ》さんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有《おっしゃ》るので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
 婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが
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