み破ろうと待ち構えていた。
「まず待《ま》つがよい」
と安房守は云った。「めったに聞けない名人の曲だ。唄い終えるまで待つとしよう」
それで、一同は鳴りを静め、三味線の絶えるのを待っていた。
さてそれから行なわれたのが、その当時の人が噂した所の「毛脛屋敷の大捕物」であり、そうして後になってその捕物が「仙人壺」というものに関係あり、と知り、改めて「大捕物仙人壺」と呼んだ、その風変りの捕物であった。
何故この捕物が風変わりであり、何故有名になったかというに、先づ第一にそれを指揮した者が、勝海舟という大人物であり、捕物の衝《しょう》にあたった人物が、伊庭八郎とその門下という、これも高名の人々だったからで。……
そうして捕えられた者共が、千代田城へ放火しようとした精悍な浪士の一群と、当時江戸を騒がせていた、鼬《いたち》使いの香具師《やし》一派という、風変わりの連中であったからである。
しかし捕物そのものは、まことに簡単に行なわれた。
即ち伊庭八郎一派の者が、三味線の音の絶えると同時に、毛脛屋敷へ乱入するや、浪士の群は狼狽し、逃げようとして犇《ひし》めくところを、あるいは斬り、あるいは捕縛し、その物音に驚いて、地下室にいた源太夫一味が、周章《あわ》てて遁がれようとするところを、これも斬ったり捕えたりして、一人のこさず狩取った迄であった。
その結果お錦と小堀義哉とは、命を助かることが出来た。
香具師の親方「釜無しの文」だけは、ちょうどそこに居なかったので、これも命を助かった。
24[#「24」は縦中横]
その夜の明け方|小堀義哉《こぼりよしや》は、自分の屋敷へ帰って来た。そこで盗難の話を聞いた。これという物も盗まれなかったが、お錦《きん》から預かった不思議な手箱を、一つだけ盗まれたということを、小間使のお花から耳にした。
「ふうむそうか、ちょっと不思議だな」
義哉は小首を傾けた。「金も取らず衣類も盗まず、手箱を奪ったというのには、何か理由がなければならない」
しかし彼には解《わか》らなかった。
「お錦殿には気の毒だが、打ち明けるより仕方あるまい」
で、お錦の来るのを待った。しかし翌日も翌々日も、お錦の姿は見えなかった。
「ああいう事件があった後だ、多少体を痛めたのかもしれない」
無理もないことだと思うのであった。
その翌日のことであったが、一日暇を戴きたいと、小間使いのお花が云い出した。
「ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな」
「はい、あの神田の兄の許へ」
「おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな」
「はい、さようでございます」
「ゆっくり遊んで来るがよい」
「はい、それでは夕景《ゆうけい》まで」
小さい風呂敷の包を抱き、小間使のお花は屋敷を出た。
神田小川町の奥まった露路に、岡引の友蔵の住居があった。荒い格子には春昼《しゅんちゅう》の陽が、鮮《あざやか》に黄色くあたって[#「あたって」に傍点]いた。
「嫂《ねえ》さんこんにちわ[#「こんにちわ」に傍点]」と云いながら、お花は門の格子をあけた。
「おやお花さん、よく来たね」声と一緒にあらわれたのは、友蔵の家内のお巻《まき》であった。三十前後の仇っぽい女で、茶屋上りとは一眼で知れた。
「これはお土産、つまらない物よ」
「よせばよいのに、お気の毒ねえ」
「それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ」
「おお、お花か、何だ何だ」
これは友蔵の声であった。
友蔵は茶の間の長火鉢の前で、湯呑で昼酒を飲んでいた。四十がらみの大男で、凶悪の人相の持主であった。下っ引の手合も今日はいず、一人いい気持に酔っていた。
朝風呂丹前長火鉢、これがこの手合の理想である。しかし岡っ引の手あて[#「あて」に傍点]といえば、一月一分か一分二朱であった。それでは小使にも足りなかった。その上岡っ引は部下として、下っ引を使わなければならなかった。その手あて[#「あて」に傍点]はどこからも出ない。自分が出さなければならなかった。そこで勢い岡っ引は他に副業を求めるか、ないしは地道の町人をいたぶり[#「いたぶり」に傍点]、賄賂《わいろ》を取らなければ食って行けなかった。
ところで友蔵には副業がなかった。そこで町人を嚇《おど》しては、収賄《しゅうわい》をして生活《くらし》ていた。
「兄さん」とお花は茶の間へ入ると、風呂敷包をサラリと解いた。「見て貰いたいものがありますのよ。この手箱なの、どう思って?」
伊丹屋《いたみや》のお錦が「爺つあん」から貰い、小堀義哉に預けた所の、例の手箱を取り上げた。
「変哲《へんてつ》もねえ杉の箱じゃあねえか、これが一体どうしたんだい?」友蔵は手箱を取り上げた。
「何でもないのよ、見掛けはね。でもちょっと変なのよ」
お花
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