解《わか》ったかな?」安房守は微笑した。
 しかし八郎は黙っていた。
「ないない」と安房守は穏やかに云った。「勿論全部は解らないだろう。だがこの俺を殺すことの、理不尽だという事は解ったらしいな」
「はい、さようにございます」伊庭八郎は一礼した。「見損ないましてございます」
「世の中は近々平和になるよ。だが今後とも小ぜりあい[#「ぜりあい」に傍点]はあろう。幕臣たる者は油断してはならない。八郎、お前、久能山《くのうざん》へ行け! 函嶺《かんれい》の険《けん》を扼《やく》してくれ!」
「それは、何故でございますな?」
「二三日中に西郷と逢う。そうして俺は談判する。俺の言葉を入れればよし、もし不幸にして入れなかったら、幕府の軍艦を一手に集め、東海道の薩長軍を、海上から俺は殲滅して見せる。函根《はこね》、久能山は大事な要害だ。敵に取られては面白くない。……まあ八郎聞くがいい、どうだ冴え切った三味線ではないか」
「よい音色でございますな」
 思わず八郎も耳を澄した。
 遠くで二つバンが鳴っていた。
 どこかに火事でもあると見える。
 しめやかに三味線はなお聞えた。
 にわかに八郎は呻くように云って、
「これは不思議! 剣気がござる!」
「ナニ剣気? ほんとかな?」安房守は眼を見張った。
「これは只事ではございません」
「お前は剣道では奥義の把持者《はじしゃ》だ。俺などよりずっと[#「ずっと」に傍点]上だ。お前がそう云うならそうかもしれない」
「これは危険がせまって居ります」
「ふうむ、そうかな。そうかもしれない」
「これは助けなければなりません」
 八郎は背後を振り返り、手を上げて門下を呼んだ。
 曲は終りに近づいてきた。

 毛脛《けずね》屋敷の床の下に、大きな地下室が出来ていた。
 この屋敷が建てられたのは、正保《しょうほ》年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国《かないはんべえまさくに》がずっと[#「ずっと」に傍点]住んでいたということであった。で、恐らく地下室は、その時分に造られたものであろう。素行|山鹿甚五右衛門《やまがじんごえもん》の高弟、望月作兵衛《もちづきさくべえ》もそこに住み著述をしたということであるが、爾来幾度か住人が変わり、建物も幾度か手を入れられたが、天保《てんぽう》になって一世の剣豪、千葉周作政成の高弟、宇崎三郎が住んだことがあったが
前へ 次へ
全56ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング