ようとして喋舌っているらしい。
宵ながら町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と寂れ、時々遙かの方角から脱走兵の打つらしい小銃の音が響いてきたが、その他には犬の声さえしない。
その静寂を貫いて、咽ぶがような、清元の音色が、一脈綿々と流れてきた。
刺客の一人は立ち止まり、じっと安房守を見守った。その安房守は背を向けたまま、平然として立っていた。まことに斬りよい姿勢であった。一刀に斬ることが出来そうであった。
それだのに刺客は斬らなかった。一間ばかりの手前に立ち、ただじっと見詰めていた。彼は機先を制されたのであった。叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]するような安房守の言葉に、強く胸を打たれたのであった。しかし今にも抜き放そうとして、しっかり握っている右の手を柄から放そうとはしなかった。
「斬らなければならない! たたっ[#「たたっ」に傍点]斬らなければならない! 二股武士、勝安房守《かつあわのかみ》[#「勝安房守《かつあわのかみ》」は底本では「勝安房安《かつあはのかみ》」]! だが不思議だな、斬ることが出来ない」
刺客の心は乱れていた。
と、唄声がはっきり聞こえた。
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※[#歌記号、1−3−28]雁がとどけし玉章《たまづさ》は、小萩の袂《たもと》かるやかに、返辞《へんじ》しおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
[#ここで字下げ終わり]
安房守は立っていた。同じ姿勢で立っていた。それからまたも喋舌り出した。
「女ではない、男だな。しかも一流の太夫らしい。一流となれば大したものだ。政治であれ剣道であれ、遊芸であれ官教であれ、一流となれば大したものだ。もっとも中には馬鹿な奴もある。剣技精妙第一流と、多くの人に立てられながら、物の道理に一向昏く無闇と人ばかり殺したがる。この安芳《やすよし》をさえ殺そうとする。馬鹿な奴だ。大馬鹿者だ。今この安芳を暗殺したら、慶喜公の御身はどうなると思う。徳川の家はどうなると思う。俺は官軍の者どもに、お命乞いをしているのだ。慶喜公のお命乞いを。……俺の命などはどうなってもよい。俺はいつもこう思っている。北条義時《ほうじょうよしとき》に笑われまいとな。実に義時は偉い奴だ。天下泰平のそのためには、甘んじて賊臣の汚名を受け、しかも俯仰天地《ふぎょうてんち》[#「俯仰天地」は底本では「俯抑天地」]に恥じず、
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