条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢《しじゅん》した。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の旨を朝廷へ対して奏聞《そうもん》した。一日置いた十六日朝廷これを嘉納した。つづいて同月二十四日、慶喜は更に将軍職をも、辞退したき旨奏聞したが、これは保留ということになった。
 さて一方朝廷に於ては、施政方針を議定するため、小御所《こごしょ》で会議を行なわせられた。中山忠能《なかやまただよし》、正親町實愛《おおぎまちさねなる》、徳大寺實則《とくだいじさねのり》、岩倉具視《いわくらともみ》、徳川慶勝《とくがわよしかつ》、松平慶永《まつだいらよしかげ》、島津義久《しまづよしひさ》、山内容堂《やまのうちようどう》、西郷隆盛《さいごうたかもり》、大久保利通《おおくぼとしみち》、後藤象二郎《ごとうしょうじろう》、福岡孝悌《ふくおかこうてい》、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。その結果諸般の改革を見、翌九日、天皇|親臨《しんりん》、王政復古の大号令を下され、徳川幕府は十五代、二百六十五年を以て、政権朝廷に帰したのであった。
 慶喜に対する処置としては、内大臣を辞すること、封土一切を返すべきこと、この二カ条が決定された。
 旧幕臣は切歯した。慶喜としても快くなかった。会桑《かいそう》二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平|容保《かたもち》、松平|定敬《さだよし》、他幕臣が従った。
 こうして起ったのが維新史に名高い伏見鳥羽の戦いであった。明治元年正月三日から、六日に渡って行なわれたのであった。そうして幕軍大いに潰《つい》え、六日夜慶喜は回陽丸に乗じ、海路江戸へ遁竄《とんざん》した。
 ここでいよいよ朝廷に於ては、慶喜討伐の大軍を起され、江戸に向けて発することにした。有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王を征東大総督《せいとうだいそうとく》に仰ぎまつり、西郷隆盛《さいごうたかもり》参謀、薩長以下二十一藩、雲霞《うんか》の如き大軍は東海東山《とうかいとうざん》、北陸から、堂々として進出した。そうして三月十五日を以て、江戸総攻撃と決定された。
 江戸はほとんど湧き返った。旗本八万騎は奮起した。薩摩と雌雄を決しようとした。しかし聡明な徳川慶喜は、惰弱に慣れた旗本を以て、慓悍な薩長二藩[#「薩長二藩」は底本では「薩摩二藩」]の兵と、干戈《かんか》を交
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