》めいた。水禽《みずどり》が眼ざめて騒ぎ出した。
 二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のお家《うち》へ」
 そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
 木戸を開けると裏庭で、柘榴《ざくろ》の花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可《いけ》ませんわ、そんなこと」
 二人は優しく争った。
 やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂《ろかい》を繰《あやつ》って紫錦は湖水を引き返した。

 どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
 楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人|臥《ふせ》っていた。
 ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
 と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可《いけ》ない、泥棒かな」
 すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
 長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思った隙《ひま》もなくポックリと障子へ穴があいた。
 颯《さっ》と部屋の中へ飛び込んで来た。
「鼬《いたち》だ」
 と伊太郎は刎起《はねお》きた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
 ぼんやり点《とも》っている行燈《あんどん》の光で、背を波のように蜒《うね》らせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
 母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、この離《はなれ》へやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
 母のお琴《こと》はそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
 それからバッタリ仆《たお》れてしまった。
 お琴は気絶したのである。
 鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なお幽《かすか》に聞こえていた。



「私《わっち》は現在見たんでさあ。嘘も偽わりもあるものですかい。ええええ尾行《つけ》て行きましたとも。するとどうでしょうあの騒動でさ」
 楽屋へは朝陽が射し込んでいた。人々はみんな出払っていて、四辺《あたり》はひっそりと静かであった。女太夫の楽屋のことで、開荷《あけに》、衣桁《いこう》、刺繍した衣裳など、紅紫繚乱《こうしりょうらん》美しく、色々
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