それを跨《また》ぐとトン公は、楽屋|梯子《ばしご》を下へ下りた。
暗い舞台の隅の方から、黄色い灯《ひ》の光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、颯《さっ》と外へ飛び出して来た。
「おお可《よ》し可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おお可《い》い子だ、おお可い子だ……」
口笛が止むとあやなす[#「あやなす」に傍点]声が、こう密々《ひそひそ》と聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然《しん》と静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何か停《と》まっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪い獣《けもの》であった。
月光が消え人影が消え、誰か戸外《そと》へ出て行った。
「思召《おぼしめ》しは有難う存じますが……妾《わたし》のような小屋者が……貴郎《あなた》のような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女《あなた》さえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
紫錦《しきん》と伊太郎《いたろう》は歩いて行った。
帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨《かりん》畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]は聞えなかった。
穂麦《ほむぎ》の芳《かんば》しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映《は》えなかった。
「美しい晩、私は幸福《しあわせ》だ」
「妾も楽しうござんすわ」
畦道《あぜみち》は随分狭かった。肩と肩とを食《く》っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
いつともなしに寄り添っていた。
やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
それで二人は舟へ乗った。
湖上には微風が渡っていた。櫂《かい》で砕《くだ》かれた波の穂が、鉛色に閃《ひら
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