お前さんは」
「何を云いやがるんでえ、箆棒《べらぼう》め、誰のための苦労だと思う」
「アラアラお前さん怒ったの」
 面白そうに笑い出した。
「おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな」
「紋切型さね、珍らしくもない」
 紫錦はすっかり嘗めていた。
 ところでその晩のことであるが、桔梗屋《ききょうや》という土地の茶屋から、紫錦へお座敷がかかって来た。
「きっとあの人に相違《ちがい》ないよ」こう思いながら行って見ると、果して座敷に伊太郎がいた。
 さすがに大家の若旦那だけに、万事|鷹様《おうよう》に出来ていた。
 酒を飲んで、世間話をして――いやらしいことなどは一言も云わず、初夜前に別れたのである。
 ホロ酔い機嫌で茶屋を出ると、ぱったり源太夫と邂逅《でっくわ》した。待ち伏せをしていたらしい。
「源ちゃんじゃないか、どうしたのさ」
「うん」と彼イライラしそうに「彼奴《あいつ》だったろう? え、客は?」
「言葉が悪いね、気をお付けよ。彼奴だろうは酷《ひど》かろう」紫錦は爪楊枝《つまようじ》を噛みしめた。
「いつお前お姫様になったえ」源太夫も皮肉に出た。
「たった今さ。悪いかえ」
「小屋者からお姫様か」
「そういきたいね、心掛けだけは」
 小屋の方へ二人は歩いて行った。
 源太夫というのは通名《とおりな》で、彼の実名は熊五郎であった。親方には実の甥で、紫錦とは従兄弟にあたっていた。
 その翌晩のことであるが、また同じ桔梗屋から紫錦にお座敷がかかって来た。
「行っちゃ不可《いけ》ねえ、断っちめえ」
 熊五郎は止めにかかった。
「いい加減におしよ、芸人じゃないか」
 紫錦は衣裳を着換えると、念入りにお化粧をし、熊五郎に構《かま》わず出かけて行った。
 気を悪くしたのは熊五郎であった。
「へん、どうするか見やアがれ」
 恐ろしい見幕《けんまく》で怒鳴《どな》り声をあげた。



 同じ一座の道化役、巾着《きんちゃく》頭のトン公《こう》は、夜中にフイと眼を覚ました。
 ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
 首を擡《もた》げて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲《まわり》を見ると女太夫共が、昼の劇《はげ》しい労働に疲労《つかれ》、姿態《なりふり》構わぬ有様で、大|鼾《いびき》で睡っていた。
 
前へ 次へ
全56ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング