とは云え浮世は金が仇、金のためには義理ある弟さえ、殺そうとする悪党もある。私《わし》から見れば間瀬とか云う男、食わせ者の銀流し、太い野郎に思われますなあ」
自分がこれから遂げようとする、極悪非道の所業に引っ掛け、長庵はこんなことを云ったものである。
追って行く人追われる人
それに、長庵の眼からみれば、このセチ辛い世の中に、他人の罪を身に引き受け、浪人したという事が、変に不自然にも思われるのであった。
「どうでも俺とは歯が合わねえ」
こう長庵は思うのであった。
「義侠心と云えばそうも云えるが、つまりそいつは宋讓《そうじょう》の仁で、一つ間違うと物笑いの種だ。いやもう物笑いになっている。襤褸《ぼろ》を下げて病みほほけ[#「ほほけ」に傍点]、長庵ずれの施療患者に、成り下るとは恥さらし。それに反して利口なは、間瀬金三郎とか云う男、泣き付いて拝み倒し、自分の科《とが》を他人《ひと》になす[#「なす」に傍点]り、うまうま罪科を脱《のが》れたとは、正に当世でこちらの畑。出世をしているに違えねえ」
「もしえ」と長庵はニヤニヤしながら、
「間瀬とか云うその仁、その後お豆でございますかね」
「健康《たっしゃ》で勤めて居りまする」
「ご出世しやアしませんかね?」
「これはこれはどうしてご存知? いかにもその後立身致し、以前は拙者より位置が下、しかるに今では拙者の位置まで経登ったと申すこと」
「アッハハハ、思った通りだ。アッハハハ、お手の筋だ。肚《はら》の皮のよじれる話、飛んだ浮世は猿芝居だ。アッハハハ、こりゃ耐《たま》らぬ」
長庵両手で横っ腹を抑え、さも可笑《おか》しそうに笑いこけたが、
「もし、旦那、お前様は、思ったよりも輪をかけて、塩が不足でござんすねえ。平ったく云えば甘いお人じゃ。この長庵から見ますれば、旦那などは鼻《はな》っ垂らし、と云って憤《おこ》っちゃ不可《いけ》ませんぜ、鼻っ垂らしのデクの棒、お話しにも何にもなりゃアしねえ。……それはそうと、今日が日にも、やはり貴郎《あなた》様は松平様へ帰参がきっと叶うものと信じておいでなさいますかえ?」
「云うまでもないこと、きっと叶う」
あんまり長庵に笑われたので、道十郎はムッとしたが、そこは性来の穏しさで、グッと抑えて何気なく、
「帰参が叶うと思えばこそ、こんな零落のその中でも、紋服一領は持って居ります。新しく需《もと》めた器類へも例えば提燈《ちょうちん》や傘へさえ、家の定紋を入れて居ります」
「へえい、それじゃ傘へまでね?」
「蔦に井桁が家の定紋、左様傘へまで入れてあります」
「なるほどなあ」と長庵は感心したように嘆息したが、
「そういう自信がなかった日には、貧乏に耐えて今日まで新しい主人に仕えもせず、お暮らしなさることは出来ますまい。武士の覚悟は又格別、長庵感服致しました。一寸《ちょっと》ご免」と立ち上ると、土間の方へ下りて行った。
玄関へ行って見廻すと、道十郎の傘がある。じろりと見ると眼を返し、土間へ引っ返して棚を見たが、
「よし」と云うと一本の傘を棚からスルリと抜き出した。それから玄関へ引っ返して行き、道十郎の傘を取り上げると、その後へ自分の傘を置く。道十郎の雨傘は代わりに棚へ隠されたのである。
その翌朝のことである。
脚絆甲掛菅の笠、行李包を背に背負った、一人の田舎者がヒョッコリと、江戸麹町は平川町、村井長庵の邸から往来|側《ばた》へ下り立ったが、云うまでもなく十兵衛で、小田原提燈を手にさげて、品川の方へ歩いて行く。
程経て同じ長庵邸から、一人の男が現われたが、黒い頭巾で顔を隠し、着流しの一本差、おりから降り出した夜の雨を、蛇目の傘《からかさ》半開き、雨が掛かってパラパラパラ、音のするのを気にしながら、足音を忍んで小走る先はやはり品川の方角である。
暗い夜道を附かず離れず、二人の男は歩いて行く。赤羽を過ぎて三田の三角、札の辻へかかるころから、後の男は足を早めたが、気が付いたように立ち止まると、下駄を脱いで、手拭いで包み、グイと懐中へ捻じ込んだ手で、衣裳の裾の高端折り、夜眼にも著《し》るくヌッと出る脛を、虻が集《た》かったかバンと打ち、掌《てのひら》を返すと顎を擦り、じーっと行手を隙かして見たが、ブッツリ切ったは刀の鯉口、故意《わざ》と高い足音を立て、十兵衛を先へ追い越そうとする。その足音に気が付いて、振り返った十兵衛の左側を影のように素早く走り抜けたが、小手をハラリと振ったのは提燈の燈《ひ》を消すためである。
「あ、いけねえ燈が消えたあ」
十兵衛が思わず叫んだとたん、グルリ身を返した村井長庵、言葉も掛けず抜き打ちに斬り付けたのが右手に当り、十兵衛の片腕がブラリと下る。
「あれマア腕が……」と云うところをザックリまたも斬り付ける。冠った菅笠を切り割って頭の鉢へ刃
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