が止まる。
颯《さっ》と血潮が飛んだであろうが闇夜《やみ》のことで解《わか》らない。
置き捨られた駕籠の主
「ワ――ッ」と云って尻餅をつく。
止まった刀を手許へ引き、一間あまり飛び退《しさ》ると、長庵は刀を背後《うしろ》へ廻した。及び腰をして覗き込む。
「人殺しだアア、追剥だアアア」
呼ばわる声も次第に細く、片手で泥を掴んでは暗を眼掛けて投げ付けるものの、長庵の身体《からだ》へは当りそうにもない。
「娘やあイ、お種やあイ」
致死期の声で娘を呼ぶ。と、最期の呼吸《いき》細く、
「兄貴! 兄貴! 兄貴やあイ。平河町の兄貴やあイ……」
現在その兄が人殺しとも知らず、綿々たる怨みの声で、こう救助《たすけ》を呼ぶのであった。
しかしその声もやがて絶え、苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き蠢いていた、その五体も動かなくなった。
雨が上り雲切れがし、深夜の遅い鎌のような月が、人魂《ひとだま》のように現われたが、その光に照らされて、たたまれた襤褸《ぼろ》か藁屑かのように、泥に横倒わった十兵衛の死骸、むごたらしさ[#「むごたらしさ」に傍点]の限りである。
長庵は素早く近寄ったが、足で死骸を確《しっか》り踏むと、左の耳根から右の耳根までプッツリ止めの刀を差し、刀を持ち替え右手を延ばすと、死骸の懐中から革の財布をズルズルズルと引き出した。
「六十両」とニタリと笑い、ツルツルと懐中へ手繰り込むや、落ち散っている雨傘を死骸の側へポンと蹴った。
さて、スタスタ行き過ぎようとする。
「オイ坊さん、お待ちなねえ」と、仇めいた女の声がした。
ハッと驚いた長庵が、声のする方へ眼をやると、いつ来てそこへ捨られたものか、道の真中《まんなか》に女駕籠が引き戸を閉じたまま置かれてある。
「俺を呼んだはどこのどいつだ」
女駕籠と見て取って、長庵にわかに元気付く。
「ホ、ホ、ホ、ホ」と駕籠の中から、艶かしい笑い声が聞こえたが、
「おまはん余程《よっぽど》強そうだねえ」
こう云った声には凄気がある。
「ねえ、おまはん、可愛い人や、坊主色に持ちゃ心から可愛! ホ、ホ、ホ、ホおい坊さん、お城坊主かお寺さんかそれとも殿医奥医師か、そんな事アどうでもいい。そんな事アどうでもいいが、円い頭の手前もあろうに、殺生の事をしたじゃアないか。たかが相手は田舎者。追剥《おいおどし》もいいけれど、殺すぶに[#「ぶに」に傍点]はあるめえによ。妾《わちき》ア見ていて総毛立ちいした。殺生なひとでありんすねえ。……それでどれほど儲けなんしたえ?」
「プッ」と長庵それを聞くと、いまいましそうに唾を吐いたが、
「いや艶めかしい廓《さと》言葉と白無垢鉄火の強白《こわせりふ》、交替《かたみがわり》に使われちゃどう[#「どう」に傍点]にも俺ら手が出ねえ。一体お前《めえ》は何者だね?」
「おや正体が見たいのかえ。見せてやるのはいと易いけれど、おまはんの眼でも潰れてはと、それが気の毒で見せられないよ」
「大きな事を吐きゃアがる。見せられなけりゃ見ねえまでよ。どれ俺らは行くとしよう」
「あれさ、気の早い坊さんだよ、ゆっくりしなんし、夜は深うざます」
「へ、へ、へ、へ、物も云えねえ。俺を止めてどうする気だ?」
「ふてえ[#「ふてえ」に傍点]分けを置いておいでよ」
「厭と云うたら何とする」
「厭とは云わせぬ手練手管[#「手管」は底本では「手菅」]……」
「ウヘエ、さては女郎だな」
「いやなお客に連れられて、二日がかりの島遊山、一人別れて通し駕籠、更けて恐ろし犬の声、それより恐い雲助に凄い文句で嚇されて、ビクビクガタガタ来かかったは、芝三角札の辻、刃の光に雲助ども、駕籠を飛ばせて逃げればこそ、往来中へおいてけぼり[#「おいてけぼり」に傍点]、見まいとしても見えるのは、人形歌舞伎の殺し場よりもっと惨酷《むご》い嬲り殺し。あんまり胆を潰したので、かえって今では度胸が据わり、草双紙で見た女賊の張本、瀧夜叉姫の相格を、つい気取っても見たくなり、呼び止めたはとんだ[#「とんだ」に傍点]粹興、と云っても一旦止めたものをただで返すは女郎の恥、みんなとは云わぬ半金だけ、妾《わちき》にくれて行きなましえ」
すっかり時代で嚇しかける。
「一両二両の端た金なら、テラ銭のつもりで置いても行こう、こう思っていた鼻先で、半金よこせは馬鹿な面め、坊主々々と安く見ても、名を明かされたら顫え出そう。もうこうなりゃア一両も厭だ。口惜しかったら腕で来い。それとも白砂へ駆け込むか。気の毒ながら手前だって、明い体じゃよも[#「よも」に傍点]あるめえ。自繩自縛とは汝《うぬ》がこと、ハイ左様なら俺は行く。二度と呼ぶな返りゃしねえぞ」
尻ひっからげ駆け出す長庵、五間あまり行き過ぎた。
ギーという扉の開く音。ヒラリと刎ねたは
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