党だけに、調子を変えて高笑い。
「ワッハハハ、嘘だ嘘だ。娘を売った血のでる金、何で俺が借りるものか。ワッハハハ気にしねえがいい」
――で、ホッと安心し、顔色を直した十兵衛が、明日は四時《よつ》立ちで帰家《かえ》ると云い、隣室へ引き取って行った後を、長庵胸へ腕を組んだが、さてこれからが大変である。
他人の科を身に引き受け
「飛び込んで来た福の神、六十両の大金を、外へ逃がしちゃ冥利に尽きる。どうがなこっちへ巻き上げてえものだ」
思案に耽っているその折柄、玄関で訪《おとな》う声がする。
「ご免下され、ご免下され」
呼吸《いき》苦しそうな声である。長庵方の施療患者、浪人藤掛道十郎である。足駄《あしだ》を穿き雨傘を持ちしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]として立っている。
「藤掛殿か、先ずお上り」
気が無さそうに長庵が云う。
「ご免下され」と上って来た。三十四五の年格好、顔色青褪め骨突起し、見る影もなく窶れている。目鼻立ちは先ず尋常、才気はどうやらなさそうではあるが、誠実の点では退けを取るまい。孔子のいわゆる仁に近しと云うその朴訥《ぼくとつ》には遺憾がない。
「いかがでござるなご容態は?」
世間並の医者らしく長庵こんなことも訊いて見る。
「長庵老のお蔭をもち近来めっきり元気付きましてござる」
「それはそれは何より結構。どれお脈拝見しましょうかな」
などと口では云いながら心の中では反対である。
「この病気が癒るものか。無比の難症労咳だからな」
形ばかりに脈を見ると。
「今日は大いによろしゅうござる。どれ煎薬でも差し上げましょう。……ところで何時《いつ》かお尋ねしようと、窃《ひそ》かに存じて居りましたが、ご貴殿ご旧主は誰人《どなた》様でござるな?」
「おお、拙者の旧主人でござるか」
旧主のことを尋ねられたことが、道十郎には嬉しかったと見え、影の薄い顔へ笑《えみ》を湛えたが、
「信州上田五万三千石、松平伊賀守が旧主人でござるよ」
「おお左様でござりましたか。伊賀守様はご名門、それに知恵者でおわすとのこと、そういう立派のご主人を離れ、どうしてご浪人なされましたかな?」
「それには深い子細がござる」道十郎は暗然としたが、
「実は朋友を救うため好んで浪人したのでござる」
「朋友をお救いなさるため? ははあ左様でございますか」
「お話し致そう、お聞き下され。……今から思えば五年の昔、拙者二十九の春のことでござるが殿に一羽の名鶯がござって、ご寵愛遊ばされ居られました所、拙者の朋友|間瀬《ませ》金三郎誤って籠から取り逃がしましてござる」
「やれやれそれはとんでもないこと」
「しかるに金三郎には妻子の他に老いたる父母がござりましてな、もしも浪人することとならば一家たちまち零落し、恩ある父母を養うこともならぬ。これが何より心掛かりと、拙者にむかって掻き口説きましたれば、はなはだ憐れにも気の毒にも思い、拙者金三郎の身代わりとなり、名鶯取り逃がしの罪を負い、殿より永の暇《いとま》を賜わり、さてこそ浪人致したのでござるよ」
「お聞き致せばお気の毒。いや天晴《あっぱれ》の義侠心、何と申してよろしいやら。さような事情のご浪人なれば、ご親友はじめ重役衆まで何とか殿様にお取りなし致し、至急帰参出来ますよう取り計らうが人情でござるに、それを今日まで打ち捨て置くとは、義理知らずではござりませぬかな」
「いやいやそれにも事情がござる。今お話しした金三郎が、一人ヤキモキ気を揉んで、殿へ取りなし致し居る由、しかるに殿にはご明君なれど酒癖あってご癇癖。自然いつもご機嫌悪く、申し出る機会がないとのこと、再三金三郎よりの消息でござる」
「しかしそいつは些《ちと》面妖、疑わしい点でござりますなあ。これが一年や半年なれば、そう諦らめても居られましょうが、何と申しても五年の月日が流れて居るのではござりませぬか。その長い五年間には、お殿様にもご機嫌よく、家来共の言葉を快くお聞きなさる時もござりましょうに。そういう場合にお取りなししたら、何の困難《むつかし》い障害《さわり》もなく、帰参が適《かな》うに相違ござりませぬ。……今日までご帰参の適わぬは、そのご朋友の金三郎様が、お取りなしせぬからに相違ござりませぬ」
長庵は意気込んで云ったものである。
「実は拙者も折々は、そのように思わぬこともないが、そういう考えの出る時には努《つと》めて消そうと試みて来ました。と云うのはこの拙者、これまで人に怨まれるような、悪事を致した覚えがなく、金三郎とて真人間のこと、恩を忘れるはずはない。おっつけ殿からの使者《つかい》が来て、芽出度《めでた》く帰参が適うものと、確《かた》く信じて居るからでござるよ」
「それは真面目のご貴殿のこと、他人《ひと》に怨みを買うような、よくないご所業をなさるはずはない。
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