一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後《うしろ》、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纒っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何んだろう? 袋のようなものである。
と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉|華子《はなこ》でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟《とっさ》に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下がる。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
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