当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
 月ばかりが後を照らしている。
 シ――ンと界隈静かである。
 いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
 敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
 がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行われているかもしれない。

 まさしく罪悪が行われていた。
 芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
 その中で行われていたのである。
 その建物の珍奇なことは!

        三十

 海に臨んで造られた館《やかた》は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々《うつうつ》とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
 館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遙か離れて人家
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