れば搦み落とす、翩翻《へんぽん》自在の構えである。星を刻むような鋒止先《きっさき》、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。

        三

 だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利《てき》き、同じく飛び退くとヌッと延《の》し、抜き持った太刀|柄《づか》気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。
「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびら[#「だんびら」に傍点]を! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃ[#「ちゃ」に傍点]アんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれ[#「ぶつかれ」に傍点]ば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵|氏《うじ》、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫《せ》り詰めてやれ」
 足の爪先|蝮《まむし》をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。
 次第に後退《あとじ》さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手《つりて》」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!
「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然《しょうぜん》たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜《はす》に耳から切られただろう。
 その際《きわ》どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。
「蝶々をご存知ではございますまいか」
 美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。
 と、また女の声がした。
「永生《えいせい》の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」
 どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。
「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」
 するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」
 非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。
「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」
「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」
 もうそれだけしか聞こえなかった。立ち去る足音もしなかった。声だけが突然土から生れ、倏忽《しゅっこつ》と空へ消えたようであった。
 風が少しく強まったらしい。藪がザワザワと揺れ出した。
 刀を宙へ振り上げたまま、じっと聞き澄ましていた一式小一郎、で思わず溜息をしたものである。
「南部氏!」と呼びかけた。「今夜の立ち合い、止めにしましょう」
「よろしい」と云うと南部集五郎は落とした刀を拾い上げた。
 パチンと鍔音高く立て、刀を納めた小一郎、「お別れ致す」と云いすてると、町の方へスタスタ歩き出した。
「何んだろういったい永生《えいせい》の蝶とは?」小一郎は歩きながら思案した。
「昆虫館とは何んだろう?」何が何んだか解らなかった。「それにしても美しい声だったなあ。心が一時に清まってしまった。……若い美しい娘なんだろう。……逢ってみたいような気がするなあ」
 彼の屋敷は麹町にあった。そこへ帰って来た小一郎は、意外な話を聞いたものである。

        四

 意外の話を話したのは
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