、他ならぬ清左衛門であった。
「それお前も知っている通り、この頃|田安《たやす》家と一ツ橋家とは、何彼につけて競争ばかりし、面白くない気勢が醸されているが、とうとう変なものを争うようになったよ」こんな調子に話し出した。「と云うのは、他でもない、江戸の四方五十里の内に、昆虫館という建物があり、永生《えいせい》の蝶と云われている雌雄二匹の蝶がいて、神秘の伝説を持っているそうだ。すなわち二匹を手に入れて、交尾をさせて子を産ませた者は、莫大な財宝を得られるとな。云い出したのは女|方術師《ほうじゅつし》、お前も知っておる鉄拐《てっかい》夫人だ。で今やお館《やかた》には、二匹の蝶を手に入れようと、苦心惨澹をしていられる。が、こいつは、馬鹿な話さ。永生とは何か、無限に生きることだ。ところが蝶は一年とは生きない。永生の蝶などある筈がない。云い出した人間が悪い。方術師とは由来道教の祖述者、虚無|恬淡《てんたん》を旨とする、老子の哲学を遵奉《じゅんぽう》するもので、無慾でなければならない筈だ。ところが例の鉄拐夫人、無慾でもなければ恬淡でもない。ヤレ錬金だの、仙丹だのと、金持ちになることと永生《ながい》きすることとを、セッセとお館に進めている、彼奴《きゃつ》決して方術師ではなく、精々のところ手品使い、初歩の忍術《しのび》の使い手に過ぎない。かような女を召し抱えたは、お館にとって不幸だが、これとてやはり競争から来ておる。一ツ橋家の方でまず最初に、蝦蟇《がま》夫人という女方術師を抱え、大仰に吹聴《ふいちょう》したからさ。で、噂による時は、一ツ橋家でも同じようなことを、その蝦蟇夫人が云い出したため、やはりそいつを手に入れようと、お館にはご苦心をされておるそうだ。今日も一日中御殿では、その評定で大騒ぎだった。困ったものだよ。こういう迷妄はな」
 こいつを聞いた小一郎が、驚きと興味とを感じたのは、説明するにも及ぶまい。膝を進めて訊いたものである。
「で、お父様、昆虫館は、どの辺にあるのでございましょう」
「云ったではないか、江戸を中心に、五十里以内の所にあると」
「確かなあり場所は解りませんので?」
「そうだよ、解っていないそうだ」
「鉄拐夫人が方術師なら、方術を用いて昆虫館のあり場所、すぐにも探し出してよさそうなもので」
「だからよ、彼奴《きゃつ》め、贋方術師さ」ここで清左衛門は眉をひそめたが、「もっとも彼奴《きゃつ》め、こんなことを云ったよ。『半島にして樹木森々、大地あって土地高燥、これ永生の蝶に適す』とな。アッハッハッハッ何を云うやら」
「昆虫館の持ち主は?」
「昆虫学者の老人だそうだ」
「美しい涼しい声を持った、娘と一緒ではございませんかな」
「え?」と清左衛門は眼を円くした。
「いえ何これはこっちの方の話で」こうはごまかし[#「ごまかし」に傍点]たが小一郎は、心の中では考えた。「不思議だな、随分不思議だ。小梅田圃でも永生の蝶! 家へ帰っても永生の蝶! あっちでもこっちでも昆虫館! 待てよ」と一層沈思した。「小梅で聞いた二つの声、その中一つは老人の声で、神々しいほどにも威厳があった。学者か宗教家か剣聖か、とまれ達識の人物でなければ、ああいう声は出せないものだ。永生の蝶を探していたっけ! ひょっとかするとあの声の主が、その昆虫館という建物の、持ち主などではあるまいかな。……いやいやそうではなさそうだ」小一郎は尚も考えた。「なにも昆虫館の持ち主なら、永生の蝶を探す筈はない。と云うのは蝶を持っているからさ、では全然別人かな。……いやいやそうでもなさそうだ」またも小一郎は考えた。
「たしかあの時娘の声で『もしご存知なら昆虫館まで、どうぞお届けくださいまし』と、こうハッキリ云ったのを聞いた。とすると、どうしても声の主達は、永生の蝶と昆虫館とに、関係あるものと見なければならない」ここで一層考えた。
「永生の蝶というようなものが、本当にこの世にいるのなら俺は是非とも手に入れたい。昆虫館というようなものが、本当にどこかにあるのなら、是非とも行って見たいものだ。しかしそれよりより一層、俺の心から殺伐の邪気を、ス――ッと一度に引っこ抜いてくれた、美しい涼しい声の主に、是非とも逢って見たいものだ。全くあの声はよかったよ。あんなにいい声の持ち主だ、素晴しい美人に相違ない。よし俺は探しに行く!」
 年が返って新年《はる》になった。天保十一年一月十日、その晴れた日の早朝《あさまだき》に、一式小一郎は屋敷を出た。
 深編笠に裾縁《すそべり》野袴、柄袋《つかぶくろ》をかけた蝋鞘の大小、スッキリとした旅装《たびよそお》い、足を入れたは東海道で、剣侠《けんきょう》旅へ出たのである。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]旅さ」小一郎は心中|可笑《おか》しくもあった。
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