「たった一度だけ耳にした娘の声を手頼《たよ》りにして、声の主を探しに行くのだからなあ」
 長閑《のどか》にボツボツ歩いて行く。

        五

 川崎の宿まで来た時である。
「お武家様え、お馬に召しませ」可愛らしい娘の声がした。
 振り返った一式小一郎、見れば駄賃馬の手綱を取り、女馬子が立っていた。
「さようさな、乗ってもよい」
「これは有難う存じます。どこまでお供いたしましょう」
「そうさなあ、どこへ行こう」
「どこへでもお供いたします」
「さあてどこへ行ったものか、これ女馬子、どこへ行ったらよいな?」
「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑ったが、「京大坂などいかさまのもので」
「ちと遠いな」と小一郎はこれも笑いながら考えたが、「これ女馬子、聞きたいことがある。土地高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある、そういう土地はあるまいかな?」
 すると女馬子はどうしたものか、チラリとその眼を険しくしたが、すぐに、表情を取り返した。
「三浦三崎の関宿《せきやど》など、似つかわしいように存ぜられます」
「ああなるほど、そこがよかろう。では関宿へやってくれ」
 小一郎はヒラリと馬へ乗った。ドー、ドー、ドーと馬子が云う。カパカパと馬が歩き出した。シャンシャンシャンと鈴が鳴る。旅が旅らしくなって来た。
「旦那様え」と女馬子は、手綱を引きながら話しかけた。「ご遊山旅でございますか」
「まあザッとその辺だ」
「ご遊山にはお寒うございます」ちょっと皮肉な調子である。
「寒さなどには驚かない」
「それはさようでございますとも」クスッと笑ったが話しかけた。「土地が高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある。そういう土地で旦那様は、何かをお探しなさいますので」
「何!」と云ったが小一郎は、かなり吃驚《びっく》りしてしまった。「どうしてお前、そんなことを聞くのだ!」
「そういう土地には色々の不思議が、沢山あるからでございますよ」
「この女馬子怪しいぞ」はじめて気が付いた小一郎は、仔細に女を観察した。立派な体格で品がある。肌は白く、髪は多く、顔の道具も充分|調《ととの》い、上流の商家の娘のようだ。特にその眼が美しい。情熱のためには理性など、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]しまいそうな眼付きである。上唇に黒子《ほくろ》がある。かえって愛嬌を添えている。「こいつは本物の馬子ではないな」小一郎はひそかに考えた。「女賊などではあるまいかな」
 すると女が声を掛けた。「大丈夫でございますよお武家様、妾《わたくし》悪人ではございません」
「ううん」と小一郎は参ってしまった。「何を申すか、つまらないことを!」
「お心で思っていらっしゃったくせに」
 これにも小一郎は参ってしまった。
「お前には解るのか、人の心が!」
「旦那様のお心なら解ります」
「これは驚いた。どうして解る?」
「好きなお方でございますもの」
「え?」とまたまた小一郎は、胆を潰さざるを得なかった。「お前は俺が好きなのか!」
「一眼で好きになりました」
「ヤレヤレ」と小一郎は苦笑した。「途方もないことになってしまった」
「恋しいお方のお心持ちだけは、恋している女に解ります」
「馬子! あんまり嚇《おど》してはいけない!」
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご免遊ばせ」
 どうにも小一郎には見当が付かない。何んだろういったいこの女は? そこで身の上を調べることにした。
「ところでお前の名は何んというな?」
「はい、君江と申します」
「ああ、君江か。年は幾個《いくつ》だ?」
「はい、十八でございます」
「で、両親はあるのかな?」
「はい健康《たっしゃ》でございます」
「で、家はどこにある?」
「三浦三崎の関宿《せきやど》に」
「えッ」と小一郎はまた嚇《おど》された。「これ、あんまり嬲《なぶ》るものではない」
「いえいえ本当でございます」女馬子の声は真面目であった。
「妾《わたくし》の家は三浦三崎、関宿にあるのでございます。それで妾は旦那様を、妾の家へお連れしようと、こう思っているのでございます」
「それはいったいどうした訳だ?」
「旅籠《はたご》商売でございますもの」
「ははあそうか、旅籠屋か。……旅籠屋の娘が何んのために、馬子稼ぎなどをやっているのだ?」
「探していたのでございます」
「ふうんそうか、何者をな?」
「はい恋人をでございます」こう云うと女馬子はニッコリした。
「そうしてとうとう今日はじめて、恋しいお方を探し当てました。旦那様あなたでございますの」
 さて剣侠一式小一郎は、この女馬子に逢ったばかりに、意外の事件に続々ぶつかり、恋と怨《うら》み、悪剣と侠剣、暗黒と光明、迷信と智恵、神秘の世界と現実の世界へ、隠見出没することになった。

        六

 その日からちょうど五日経った。
 三浦三崎の君江の
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