小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。
二
「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。
「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」
いやそうでもなさそうである。
「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀《しない》の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた[#「のた」に傍点]打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」
ふと小一郎は誘惑を感じた。
「切るにしても女や町人はいけない。うんと[#「うんと」に傍点]屈竟な武士に限る!」
考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦《そよ》いでいる。その、裾辺まで来た時である、
「む、こいつは可笑《おか》しいぞ」小一郎はスッと後へ退《の》き、ジ――ッと藪を隙《す》かして見た。
何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾《かし》げたものである。
「どいつかいるな! 刀を按じて!」
迫身《ハクシン》ノ刀気《トウキ》ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者《モノ》則《スナワ》チ豪《ゴウ》――鐘巻流の奥品《おうぽん》にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。
不意に小一郎は左手《ゆんで》を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄《つか》へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。
と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。
「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」
「や、貴殿南部氏か!」
「さよう」というと南部集五郎は、二歩《ふたあし》ほど前へ進み出たが、「尾行《つ》けて参った、深川からな」
「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。
「率直に申す! お立ち合いなされ……」
「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。
「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられ[#「けしかけられ」に傍点]ましたな?」
「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、
「それでは益※[#二の字点、1−2−22]恰好というもの、遁《の》がしはせぬ、お立ち合いなされ!」
「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃《すた》れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急《せ》くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上《かみ》にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち[#「おっこち」に傍点]ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高《いたけだか》である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって[#「はまって」に傍点]は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩|退《の》いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼《たよ》って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱《しご》くと早襷《はやだすき》! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食《は》み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体《からだ》がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠《わだかま》った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来
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