リと取り巻いているのは、まさしく偉観と云ってよかった。で、この場の風景は、こんなように形容することが出来る。大森林という円筒の中に、穏かな池と可愛らしい家と、そうして美しい花壇とが、こっぽり[#「こっぽり」に傍点]囲まれて出来ていて、そこで大勢の人達が、さも愉快そうに働いていると。――
全く大勢の人達が、そこで働いているのであった。家の中にも人がいる。家の外にも人がいる。みんなクルクルと動き廻わっている。男もいれば女もいる、年寄りもいれば子供もいる。笑い声、話し声、唄い声、それが快い合唱《コーラス》となって、大池の方へ蒔かれている。何を働いているのだろう? 昆虫館の館主のために、各自の仕事をしているらしい。
森林にかこまれているためか、寒い風など吹いて来ない。季節はたしかに一月だが、気候から云えば三月のようだ。いい天気だ、あたり明るく、小鳥が八方で啼いている。桃源境! 別天地! だが不具者《かたわもの》の社会でもあった。
と云うのはそうやって働いている、大勢の人間の一人一人が、片耳であったり片足であったり、てんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったり盲目《めくら》であったり、唖者《おし》であったり聾者《つんぼ》であったり、満足な人間はないからであった。
想うに碩学昆虫館主人が、世の廃人《すたれもの》を拾い集め、ここに別社会を建設し、何らか事業をしているのらしい。
だが遠くから見ていると、不具者《かたわもの》などとは思われない。みんな健康《たっしゃ》そうな人間に見える。
「平和で長閑で美しい。いい境地だ。住みよさそうだ」うっとりしながら小一郎は、こんなことを考えた。「あの桔梗様と婚礼をし、あの学者を舅に持ち、ここでいつまでも住みたいものだ」
少し睡気《ねむけ》がさして来た。横になろうとした。しかしその時近寄って来る、人の気勢《けはい》が感じられた。コツンコツンと松葉杖の音が、灌木の叢の裾を巡り、現われたのは片足の吉次で、小一郎の前へ立ち止まると、不遜な目付きでジロジロと、小一郎の体を嘗め廻わしたが、
「騎士《ナイト》よ」と云い出したものである。それから嗄《しゃが》れ声で笑い出してしまった。笑いおえると云ったものである。「ここ神秘なる昆虫館で、厳重に禁じられているものを、一式氏にはご存知ないと見える」
「厭な奴だな」と小一郎は、快い睡気を醒ましたが、明るくて皮肉な性質である。負けずに云い返した。
「拙者新米、昆虫館の掟、さようさ、とんと[#「とんと」に傍点]存じませんて」
「そうらしいの」と片足の吉次は、いよいよ不遜な態度をとったが、「穢してはならぬよ! 女王をな! 女王との恋は禁じられているよ」
「ははん、さようか、それはそれは」一式小一郎はこう云ったが、女王が何者だかということは、すぐに推察することが出来た。
十五
そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ[#「たしなめ」に傍点]にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷《ひや》っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪座《ひざまず》いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請《せが》んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「いったいお前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕《しもべ》さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑
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