それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、
「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意《わざと》らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好《このみ》に合いませんとも、妾にはね」
 桔梗様も故意《わざ》と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪座《ひざまず》くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は跪座き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士《ナイト》よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の蔭や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎とおっしゃったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士《ナイト》!」それから片手をつと延ばした。
 その手を握りしめた小一郎は、立ち上がると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
 だが桔梗様は不安そうに、「伴《ともな》いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何んとなく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
 二人優艶に抱き合おうとした。
 大池へ通う小径《こみち》である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零《こぼ》れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
 と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
 カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。

        十四

 桔梗様と別れた小一郎は、大池の方へ歩き出した。胸の中は幸福で一杯であった。
「態《ざま》ア見やがれ南部集五郎め!」こんなことを呟いた。「勝ったよ勝ったよ俺の方が、昆虫館も先に探し出したし、美しい声の主の桔梗様も、お前より先に手に入れてしまった。もっとも今のところ『心』だけだが。その中|身体《からだ》だって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿《たに》へ落ち死んでしまやアしないかな」それからまたも呟いた。「態ア見やがれ、阪東小篠め! あんな女には用はない!」ここでちょっとばかり憂鬱になった。「だが君江はどうしたろう? 英五郎殿はどうしたろう? 確かにこの俺を助けようとして、あの時大勢でやって来たが、やはり大水に流されたらしい。死にはしないかな、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
 大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣《さざなみ》一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣《なめ》し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚《うっとり》となってしまう。
 池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
 池と家とを守護《まも》るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグル
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