い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の※[#「馬+付」、第4水準2−92−84]馬《ふば》になった時!」
 怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃《ひそ》め、諂《へつら》うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だとおっしゃるなら、よろしいよろしいお住居《すまい》なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二、三度|眼瞼《まぶた》を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このようにおっしゃっていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
 こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねて見よう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
 と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二、三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。

        十六

「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知《きく》か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
 云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止どまる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益※[#二の字点、1−2−22]、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
 とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸しったが、瞬間ピューッと空を裂き、刎ね上がったは松葉杖で、ピカッと光ったは杖の先に、取り付けてある鋼鉄《はがね》の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧《よろ》われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐《ちへど》を吐き、グ――ッ背後態《うしろざま》にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何んの小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略《おおよそ》二間背後の方へ、束《そく》に飛び返っていたのである。
 柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
 すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚《よ》っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかった筈だ。だが……」と云うとピョンピョ
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