形の帆柱に、鳥が羽根でも張ったように、風を孕んで懸かっている。だがその地質はひどい[#「ひどい」に傍点]物で、継接をした襤褸なのである。
 船の形も珍しかった。と云うよりそれは筏《いかだ》なのであった。あの木曽川とか富土川とか、山間の河を上下するために、山の人達は丸太を組んで、堅固の筏を作るものであるが、その船もそういう筏なのであった。
 それにしても、速力の速いことは!
 筏船は駸々《しんしん》と走って来る。歌のような帆鳴りの音がする。泡沫《しぶき》がパッパッと船首《へさき》から立つ。船尾《とも》から一筋|水脈《みお》が引かれ、月に照らされて縞のように見える。
「嘘をお云いよ、嘘をお云いよ、何んの鯱丸がパッチリコと、眼なんか開いているものか。居眠りをしていたに相違ない」老婦人はこんなことを云い出した。「その証拠には三角の帆が、ダラリと下がっているではないか」
「おや」と鯱丸は吃驚《びっく》りした。「向こうを向いている癖に、こっちのことが解ると見える。背後《うしろ》に眼でもあるのかしら。小気味の悪い婆さんだよ」
 優れて美しい容貌にも似ず、鯱丸は口が悪いのである。
 ところが老婦人の性質は、寛大で剽軽《ひょうきん》で磊落《らいらく》だと見え、一向それを咎めようともしない。
「背後《うしろ》にもあれば前にもある、足にもあれば手にもある、胸にもあれば背中にもある、妾は体中眼なんだよ。何んのそればかりではない! 頭脳《あたま》! 頭脳! ね、頭脳、頭脳そのものが眼なんだよ。だからさ、妾にはどんなものでも見える、……だからさ、今度山を下り、江戸へ入り込んだというものさ」老婦人はこんなことを云い出した。
「いよいよ迷惑な婆さんだよ」小法師の鯱丸は毒舌である。「江戸入りしたのはいいけれど、筏船を作って帆を上げて、隅田川を上へ溯《さかのぼ》って、大きな屋敷の水門から、屋敷へ入り込もうとしたかと思うと、にわかに後へ引っ返し『鯱丸よ、行手変えだ! 芹沢の郷! 芹沢の郷! やれやれやれ、そっちへやれ』などとむやみに急《せ》き立てて、こんな方へ走らせて来たんだからなあ。その途方もない沢山の眼で何を見たのか知らないが、梶取《かじと》りの俺《おい》らは疲労《つか》れてしまう」どうやら鯱丸は不平らしい。「一体全体何んのために、そんな所へ行くのだろう」
「それはね」と云ったが老婦人の声は、この時いくらか真面目になった。「人を助けに行くのだよ」
「人を助けに? 怪しいものさ」
「綺麗な綺麗な娘をね」
「ふうん、何んだか解るものか」
「そうして叱りに行くのだよ」
「だんだん解らなくなって来た」
「妾の家来でありながら、その妾を裏切って、よくないことをやっている、二人を叱りに行くのだよ。……鯱丸!」と俄然いかつくなった。
「船をお廻わし、陸の方へ! 街道の方へお近付け!」
「はい」と云ったが神妙であった。鯱丸はグ――ッと綱を引いた。ハタハタハタ、ハタハタハタと、方向が変えられた幾個の帆は風を孕んで靡いたが、筏船は素早く方向を変え、街道筋の方へ辷り出した。
 と、間もなく街道が――東海道の陸の影が、遙かにぼんやりと見えて来た。
「鯱丸」とまたも命令的に、「さあさあ松火《たいまつ》へ火をおつけ!」
 カチッ! と燧《ひうち》石の音がした。すぐにボ――ッと火が立った。鯱丸が松火を点したのである。
「およこし」と云ったが老婦人は、松火を取ると頭上へかざし、二、三度グルグルと渦を描いた。
 と、どうだろう、それに答えて、陸から松火の桃色の火が、一点ポッツリと見えたではないか。
 何者かそこにいると見える。
 何者どころではない行列なのであった。
 頭髪《かみ》こそ削《そ》らずに切り下げとして、肩へ掛けてはいたけれど、無地の鼠の衣裳の上へ、腰衣《こしごろも》を纒い袈裟をかけた、尼の一団が足並みを揃え、その数およそ三、四十人、トットと走っているのであった。
 有髪の尼僧の一団なのである。
 筏船に乗っている老婦人も、全く同じ姿であった。鼠の無地の衣裳を着、黒の腰衣を纒っていた。そうして袈裟を掛けていた。その袈裟ばかりは金襴である。松火の火に照り返り、まばゆいまでに美しい。美しいといえばその顔も、随分美しいものであった。男のような高い鼻、凛々しく引き締まった大型の口、延び延びと引かれた長い眉、それより何より特色的なのは「神秘」という言葉を如実に示した、大きくて、窪んで、光が強くて、そうしてともすれば残忍にさえ見え、そう見えるために美しい弓形をした眼であった。血色もよく皺もない。が老女には相違なかった。肩を蔽うている切り下げ髪が、白金のように白くもあれば、眉毛さえも白金のように白いのだから。

        四十二

 火を吹き消した有髪の老尼は「鯱丸」とまたも命令的に云った。
前へ 次へ
全58ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング