四十
ところがちょうどこの頃のこと、大森の方角から海岸づたいに、一団の人影が走って来た。一挺の駕籠を取り巻いた、十五、六人の武士達で、いずれも[#「いずれも」は底本では「いずも」]密行姿である。女方術師鉄拐夫人、その本名は北王子妙子、それを駕籠へ乗せた田安家の武士で、桔梗様を救いの人数であった。
すなわち田安家の裏門から、この夜こっそり忍び出て、方角違いの玉川の方へ走って行った一団なのであるが、どこをどうして廻わって来たものか、この時姿を現わしたのである。
海岸を一散に走って行く。と、妙子が声をかけた。
「お急ぎお急ぎ、急いでおくれ! まごまごしていると間に合わない! ……妾には解る、妾には解る! 昆虫館主の娘の桔梗が、今危難に墜落《おちい》っている! 生死のほども気づかわれる! 一刻を争う場合だよ! お急ぎお急ぎ、お急ぎお急ぎ!」
駕籠の一団はひた[#「ひた」に傍点]走る。
砂山がある。砂山を越す。流木がある。流木を飛ぶ。とまた砂山が出来ている。それを越さなければならなかった。
「可笑《おか》しいねえ。どうしたんだろう? 何んとも云えない不安の気が、海の方から襲って来るよ」
北王子妙子の声がした。
「走るのをお止め! 駕籠をお止め!」
――止まった駕籠からスルスルと、北王子妙子は現われたが、浪打ち際まで歩いて行き、ズーッと海上を眺めやった。
が、海上には何んにもない。月光に暈《ぼ》かされて茫漾と、煙りこめているばかりである。
だが北王子妙子には、どうやら何かが見えるらしい。いつまでも不安そうに眺めている。
と、にわかに振り返ったが、
「柵頼《さくらい》柵頼!」と声を掛けた。
「は」寄って来た武士がある。柵頼格之進という武士である。慇懃に小腰をかがめたが、「は、何事でございますか?」
「ご覧、海上を、船が来るだろう?」
柵頼格之進は海上を見たが、船の姿などは見えなかった。
「いえ、見えませんでございます」
「そうかい」と云ったが妙子の声は、依然不安を帯びていた。「お前達のような凡眼には、時刻《とき》は深夜、間隔《あわい》は遠し、なるほどねえ、見えないかも知れない、が、確かに恐ろしい船が、一隻帆走って来るのだよ」
「どういう意味でございますかな? 恐ろしい船と申しますのは?」
「船は何んでもないのだよ。恐ろしいのは乗っている方さ」
「いかなるお方でございますかな?」
「秘密を握っている方さ」
「何んの秘密でございましょう?」どうにも柵頼格之進には、妙子の云うことが解らないらしい。
「妾の秘密を握っている方さ! そうして妾の競争相手の、冷泉華子さんの秘密もね」
「そのお方のご身分は?」
「偉い方だよ、力を持った方さ」
「ご姓名は?」
「うるさいねえ!」
「は」と格之進は引っ込んだ。
「こんな場合にあのお方に、出現されてはたまらない[#「たまらない」に傍点]! 何も彼もみんな駄目になる」譫言《うわごと》のように呟いたが、「ナーニそうなりゃア怨《うら》み恋《こい》なしだ! 妾ばかりが困るのではない、華子さんだって困るのだ。諦めなければならないかもしれない」
尚も海上を眺めやった。
だが、海上には何んにもない。風の凪《な》いだ海は、穏かで、事実人魚というようなものが、ほんとに海の中に住んでいるなら、波に浮かび出て美しい声で、歌でもうたいそうにさえ思われる。
クルリと方角《むき》を変えた北王子妙子は、駕籠の傍まで引っ返したが、
「案じていたところで仕方がない。やるところまでやるとしよう」駕籠へはいると声をかけた。
「おやり! 急いで! 一生懸命!」
海岸を伝って一散に、駕籠を囲んで田安家の武士達は、芹沢の方へ走ったが、駕籠の中では北王子妙子が、不安そうに呟いていた。
「船! ……あのお方! ……手も足も出ない!」
だが本当にそんな[#「そんな」に傍点]船が、そんな恐ろしい人物を乗せて、海上を渡って来るのだろうか?
妙子の透視《みとおし》には狂いがなかった。
遙か離れた海上を、一隻の船が帆走っていた。
四十一
船首《へさき》には老婦人が立っている。
悠然と行手を眺めている。
と、老婦人が声をかけた。
「これこれ鯱丸《しゃちまる》、どうしたものだ、眠ってはいけない、起きたり起きたり」
「阿呆らしい」とすぐに返辞が来た。「何んの眠ってなんかおりますものか、こんなに大きくパッチリと、眼をあいているじゃアありませんか」こう云ったのは少年である。船尾《とも》の方に坐っている。青い頭の小法師である。年はようやく十四、五らしい。可愛い腰衣《こしごろも》をつけている。帆をあやつっているのである。
その帆であるが変わった型で、三角型のものもあれば、菱形をなしたものもある。一本の丁字
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