た。
で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯になろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえて来る。
と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸《つ》いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸《つ》いたぞ! 頤《あご》まで浸いたぞ!」
ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
つと[#「つと」に傍点]華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝《おのれ》強情! 云え云え云え、蝶の在家《ありか》を! まだ助かる、さあ桔梗!」
ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
だがとうとう聞こえ来た。「口まで浸《つ》いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた! 一式小一郎は!」
「汝《おのれ》も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。
三十七
裏門まで馳せつけた七福神組は、バラバラとそこで手を解いた。手組輿がこわれた。
ヒラリと下り立ったのは弁天松代で、ズ――ッと館を見廻わしたが、
「さあさあいよいよ乗り込みだ。唐の建物に則った、珍妙を極めた家のつくり、棟数も随分多いようだ。人数も大分こもっているらしい。七人の仲間がバラバラに、別れて探しにかかった日には、打って取られる恐れがある。成るたけ七人かたまって、片っ端から一棟ずつ、虱潰《しらみつぶ》しに潰すとしよう。何んの何んの潰すんじゃアない。桔梗様を見付けて取り返すのさ。どうせ切り合いになるだろう。刀の目釘を湿すがいい。ええと合言葉は『船と輿』だ。そうは云っても乱闘となったら、チリヂリバラバラに別れるかも知れない。そうなったら仕方がない、各自《めいめい》思うさま働くがいい。そうして危険にぶつかったら[#「ぶつかったら」に傍点]、合図の手笛を吹くことにしよう。一声永く引っ張ってな。ええとそれから誰でもいい、誰か桔梗様を目付けたら、手笛を二声吹くとしよう。……さあさあ乗り込め、まず妾から」女ながらも一党の頭《かしら》、隙のない手配《てくば》りを云い渡したが、やがて土塀へ手をかけると、翩翻《へんぽん》と向こうへ飛び越した。
後の六人も負けてはいない、これも土塀を飛び越した。
宏大な庭が拡がっている。樹木や築山が聳えている。泉水も小川もあるらしい。それに介在して建物が、到る所に立っている。月光が、それを照らしている。ある建物からは人声がする。ある建物は沈黙である。
地に肚這った七福神組は、しばらく様子をうかがったが、
「オイ」と松代がまず云った。「手近の建物から調べよう」
「合点」と答えたのは六人である。もちろん掠めた声である。
眼の前に一宇の建物がある。厳重に雨戸で鎧《よろ》われている。そこは怪盗七福神組だ。そこまで素早く走ったが、神妙を極めた潜行ぶりで、葉擦れの音も立てなければ、足音一つ立てなかった。
と、松代だがピッタリと、雨戸へ耳を押しあてた。
「どうやらここは図書庫らしい。人の気勢が感じられない。紙魚《しみ》くさい匂いばかりが匂って来る」すなわち六感で感じたのだろう。「さあさあ、向こうの建物へ行こう」
そこで七人また潜行し、もう一つの建物までやって来た。と、ピッタリ弁天松代は、雨戸へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたが、「ここには四五人|人《ひと》がいる。だが一人も女はいない。何んとなく刀気が感じられる。これは武器庫に相違ないよ。随分沢山|蔵《しま》ってあるらしい。これがいつもの私達だったら、決して決して見逃しては置かない。踏ん込んで行って攫《さら》うのだが、今夜はそうしてはいられない。攫うものが他にあるのだからね。……さあさあそれでは向こうへ行こう」
行手にあたって林がある。と云っても楓の植え込みである。林のように繁っている。月光を遮って闇
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