場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
 君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労《つか》れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
 と云いながら、君江は馬の平首を打った。
 君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声|嘶《いなな》いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
 予想は中《あた》ったというべきであろう。
 馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
 二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
 つづいて木を分け草を分け、大勢の馳せ下る音がした。一ツ橋家の武士達であろう。馬の蹄の鳴る方へ、追っかけて行くものと思われる。
「計画的中! しめたしめた!」
 笑みを湛えたが小一郎は、決して油断はしなかった。二人の武士を叩っ切り、血に濡れている大刀を抜いたまんまで膝へ引き付け、全身を大岩の蔭へ隠し、立て膝をして窺った。木洩《こも》れ陽《び》が一筋射している。それが刀身を照らしている。そこだけがカッと燃えている。がその他は朦朧《ぼけ》ている。引き添って背後に坐っているのは、女馬子姿の君江である。用意をして来た懐刀《ふところがたな》を、帯へ差したまま柄《つか》を握り、見現《みあら》わされたら女ながらも、切り捲くってやろうと構えている。
 蹄の音が遠ざかる。追って行く武士の足音も、それに続いて遠ざかる。
 いよいよ危険は去ったらしい――と思った瞬間であった。二人の真上から人声がして、走り下って来る足音がした。
「これはいけない、見現わされそうだぞ!」さすがにハッとして小一郎が、抜き身をユラリと取り直した時、五、六人の武士が馳せ下って来た。とその中の一人であるが、スルスルと大岩の頂きへ登った。見上げた小一郎の眼の上に
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