たかい》を以て決しはせぬ。行末遥の戦に多からぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ」
「ご退陣?」と、正遠も、孫三郎も、驚いたように眼を見張った。「一戦もお交しあそばされずに?」
「一旦|退《の》いてまた乗っ取るのじゃ」
「…………」
「味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな」
「…………」
「公綱に恩を施すともいえる」
「…………」
「宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆《もろ》い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にして順逆《じゅんぎゃく》の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を翻《ひるが》えし、皇家無二の忠臣として、尽瘁《じんすい》せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ」
 暁近くなった時、正成の本陣をはじめとし、和田正遠、湯浅定仏、その他楠家一党の陣は、ひそかに粛々と伍をととのえ天王寺から引きあげた。

       *

 一方宇都宮治部大輔公綱は、東の空の白むと見るや、七百余騎を引率し、天王寺さして驀地《まっしぐら》に押し寄せ、古宇都《こうづ》の民家へ火をかけて、鬨《とき》の声をドッとあげた。
 京都あまりに
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