赤格子九郎右衛門
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)金限《かねもち》

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(例)是迄|幾個《いくつ》かの

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(例)※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》
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     一

 江川太郎左衛門、名は英竜、号は坦庵、字は九淵世々韮山の代官であって、高島秋帆の門に入り火術の蘊奥を極わめた英傑、和漢洋の学に秀で、多くの門弟を取り立てたが、中に二人の弟子が有って出藍の誉を謳われた。即ち、一人は川路聖謨、もう一人は佐久間象山であった。象山の弟子に吉田松陰があり、松陰の弟子には伊藤、井上、所謂維新の元勲がある。
 所で江川太郎左衛門には一人の異色ある弟子があった。それは金限《かねもち》の御家人の伜で、宮河雪次郎と宣《なの》る男で後年号を雪斎と云った。この雪次郎は面白いことには、江川塾へ這入ったものの、別に砲術を究めるでもなく、又蘭学を学ぶでもなく、のらりくらり[#「のらりくらり」に傍点]としていたが、俄然一書を著わした。即ち、「緑林黒白」である。
 この「緑林黒白」こそは、日本、支那、朝鮮に輩出した巨盗大賊の伝記であって、行文の妙、考証の厳、新説百出、規模雄大、奇々怪々たる珍書であったが、惜しい事には維新の際、殆ど失われたということである。つまり兵燹《へいせん》に焼かれたのである。
 然るに夫《そ》れを、偶然のことから、私は完全に手に入れた。何んという好運であったろう。そこで私は夫れを材料《たね》として、是迄|幾個《いくつ》かの物語を諸種の雑誌へ発表したが、今回は赤格子九郎右衛門に就き、「緑林黒白」に憑拠して考察を加えて見ようかと思う。
 先ず第一に云って置き度い事は、私の物語に現れて来る、快男子赤格子九郎右衛門なる者は、従来の芝居や稗史小説で、嘘八百を語り伝えられて来たその人物とはあらゆる点に於て、大いに相違があるという事である。その最も著しい点は、彼の現れた時代である。彼は小説で云われているような享保年間の人物では無く実に豊臣の晩年から徳川時代の初期にかけて、内外に勇名を轟かせた所の、堂々たる一個の武人なのである。
 而《そし》て又「緑林黒白」によれば、彼九郎右衛門は賊では無くて、誠に熟練した忍術家であり、豊臣秀吉に重用された所の、細作、即ち隠密だそうである。
 彼は度々秀吉の命で、西国外様の大名や関東徳川家などの内幕を、得意の忍術を応用して、深く探ったとも云われている。
 ところで彼を秀吉へ誰が推薦したかというと、千利休だということである。夫れに関しては次のような極わめて面白い物語がある。
 博多の豪商、神谷宗湛に、先祖より家宝として伝え来った楢柴という茶入があった。最初にそれを所望したのは豊後の大友宗麟であったが宗湛はニベも無く断わった。次に秋月種実が強迫的に得ようとしたが呂宋《るそん》、暹羅《しゃむ》、明国を股にかけ、地獄をも天国をも恐れようとはしない海上王たる宗湛に執っては、強迫が強迫に成らなかった。で、ニベも無く断わった。最後に夫れを望んだは他ならぬ豊臣秀吉であった。然るに宗湛は夫れをさえ、情《すげ》なく断わって了ったのである。
 併し、名に負う天下人が、一旦所望したからは、いかに宗湛が強情でも遂には命に従わなければならない。斯うして遂々其茶入は、秀吉の有に帰したのである。
 楢柴を得た秀吉は、勿論非常に喜んだが、そういう名器であって見れば、迂濶に左右に置くことも出来ぬ。で、利休へ預けたのである。
 常時[#「常時」はママ]利休は茶博士として生きながら居士号を許された名家、且は秀吉の師匠ではあり、城内に屋敷を賜わって並び無き権勢を揮っていたが、名器楢柴を預かって以来、度々怪異に襲われるようになった。
 或夜、利休は供も連れず静かに庭を彷徨っていた。さび[#「さび」に傍点]と豪奢とを一つに蒐め、彼自ら手を下して造り上げたところの庭であるから、一本の木にも一坐の山にも悉く神経が通っている。
 彼は亭《ちん》の前まで来た、其横手に石燈籠が幽《かすか》に一基燈っている。
「はて」と不思議そうに呟き乍ら、彼は其前に彳《たたず》んだ。どう考えても其辺に石燈籠があるわけが無い。其処には燈籠は置かなかった筈だ。そこに燈籠のあるということは、彼の流儀に反している。
 で彼は小首を傾げながら、何時迄も其前に立っていた。
 すると、あやしくも、燈籠の火が、次第々々に明るくなり、空に太陽でも出たかのように庭一面輝き渡ったが、次の瞬間には忽然と消えて、今迄在った燈籠さえ何処へ行ったものか影も無い。
 利休は思わず嘆息した。
「此利休の芸術には、乗ぜられる隙があると見える。風雅で固めた庭の上を、狐狸の類に荒らされるとは、さてさて不覚の沙汰ではある」
 併《しか》し不覚は是ばかりで無く、もっと致命的の大不覚が、彼の身辺に起って来た。
 夫は六月の十日という夏の最中のことであったが、夜更けて彼は只一人、いつもの寝間に眠っていた。
 轡《くつわ》の音に眼を醒ます。これは武士の嗜である。彼は茶筌の音を聞いて、ふと真夜中に眼を醒ました。衾の上に起き上り、じっと其音へ耳を済ます。と、其音は思いもよらず隣の室から聞えて来る。
 彼は思わず衾を刎《は》ねた。そしてスルリと立ち上がった。足音を盗んで襖へ寄り、細目に開けて隙かして見た。
 髪を若衆髷に取上げた躯幹《からだ》の小造りの少年武士が彼の方へ横顔を見せ、部屋の真中に端然と坐わり、巧みな手並で茶を立てている。見覚えの無い武士である。
 利休は武士の手元を見た。と彼は「あっ」と声を上げた。関白殿下より預けられた楢柴の茶碗で悠々と武士が茶を立てているからであった。
「曲者!」と利休は声を立てた。しかし其声は口の中で消え四辺《あたり》は寂然《しん》と静かである。彼は襖を引き開けた。それは開けたと思ったばかりで、依然として襖は閉ざされている。不動の金縛りにでも逢ったように、動くことも声を立てることも出来なかった。
 其間に武士は悠々と忙《せ》かず周章《あわ》てず茶を立て終えて、心静かに飲み下した。作法に従って清め拭うや、徐《おもむろ》に茶碗を箱に納め、ふと利休の方へ顔を向けたが滴たるような笑い方をし、それからすらり[#「すらり」に傍点]と立ち上がり、二三歩足を進んだかと思うと、朦朧と姿は消えたのである。

     二

 その翌日のことであるが、利休は秀吉に謁を乞うた。二度の不思議を物語ってから、斯う云って彼は付け加えた。
「最初は狐狸かとも存じましたなれど、殿下お手付けの名器を恐れず、悠然茶を立てた振舞いは、大胆過ぎて正しく人間、恐らく無双の忍術家と、目星をつけましてござりますが……」
「解った」と秀吉は性急に云った。「草を分けても探がし出し、引捕らえて罰せずばなるまいぞ!」
「あいや暫らく」と夫れを聞くと、利休は急いで手を揮った。「ちと浅慮かと存ぜられまする」
「なに、浅慮じゃ? この秀吉を!」
「過言はお許し下さいますよう。名に負う左様な不敵の人間、まして術者とござりますれば、不礼を咎めて罪するよりも、恩を掛けてお味方に付け……」
「何かの役に立てろと云うか?」
「仰せの通りにござりまする」
「利休、今日より茶を止めい!」
「え?」と驚いて眼を見張る。
 すると秀吉はカラカラと笑い、
「何も驚くことは無いわ。器量ある男と云った迄じゃ。茶を止めて采配を握ったなら、如水ぐらいには成れようも知れぬ。よいよい其方の言葉に従い、其奴捕えて幕下として細作なんどに使うとしょうぞ」
 斯うして翌日から諸方に向かって不敵の術者捜索の為めの多勢の人数が配られた。そして其結果見付け出されたものこそ、この物語の主人公、赤格子と後年字名を呼ばれた梶原九郎右衛門教之であった。
 此時、九郎右衛門は十五歳、産れは九州天草島、郡領房雪の末子であった。
 豊公歿後、仕を辞し、徳川氏の代になってからは、彼は陸上に望を断ち、海に向かって発展した。即ち博多の大富豪島井宗室の大参謀となり、朝鮮、呂宋、暹羅、安南に、御朱印船の長として、貿易事業を進めたのである。
 彼は復《また》居合の名人であった。それに就いて一つの逸話がある。

「一人の老いた侍が静かに歩いて居りました、深編笠で顔を隠し其上俯向いて居りますので顔は少しも解りませんが強健な姿から推察ると偉貌の持主に相違ありません。黒紋附に細身の大小、緞子《どんす》の袴を穿いた様子は何《ど》うして中々立派なものです。千石以上の旗本の先ず御隠居という所です。が夫れにしてはお供が無い。
 慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草奥山の盛場は人で立て込んで居りました。其侍は忙かず急がず其中を歩いて行くのでした。
 其時行手から人波を分けて侍が三人遣って参りましたが打見た所御家人か小禄の旗本と云ったようながさつ[#「がさつ」に傍点]な人品でございます。やがて人波に揉まれながら双方の侍は行き違いましたが、どうしたものか不図其時、編笠を冠った其侍がその編笠へ左手《ゆんで》を掛けヒョイと空の方へ向きました。と、其空に物化でもいて彼に逼るのを払うかのように左手をバラバラと振ったものです。そして殆ど夫《そ》れと同時に右手《めて》が突然胸元まで上がり、何かピカリと閃めいたかと思うと一刹那掛声が掛かりました。
「えい」でも無ければ「ヤッ」でも無い。それは、「カーッ」という掛声です。
 その掛声の鋭いことは、歩いていた人達が立ち止まった程です。一体「か」という此音は喉的破裂の音と云って舌の後部を軟口蓋に接し一気に破裂させる鋭い音ですが不思議のことには剣道の方では殆ど此音を用いません。いずれ理由はあるのでしょう。
 ところが雑踏の浅草境内の加之《しかも》真昼間往来中でこの掛声が掛かったのです。そうして何んと不思議な事には、いまし方迄歩いていた編笠を冠った其侍の姿が、見えなくなったではありませんか。つまり掛声が掛かると一緒に姿が見えなくなったのです。そうして胆の潰れることには朱に染まった三人の武士が斃れているではありませんか。三人ながら只一刀に脳天を割られているのでした。
 この白昼の兇変は瞬間に江戸中に伝わりまして大変な評判になりました。その侍こそ怪いというので南北町奉行配下の与力や、同心岡引目明まで、揃って心を一つにして其詮策に取り掛かかりましたが一向手掛かりもありません。
 旗本や御家人や勤番侍などへ夫れと無く探り入れても見ましたが、香ばしいこともありません。かいくれ目星が付かない中にどんどん日数が経って行って一月余りも経ちました。其の時、全然同じ一手段で夫れも立派な旗本が一人、芝の御霊屋《おたまや》の華表《とりい》側で切り仆されたではありませんか。
 そうして矢張り切手の侍は何処へ行ったものか姿は見えず、「カーッ」と掛けた掛声ばかりが、往来の人の耳の底に残って居るばかりでありました。
 江戸の治安を司る町奉行の驚きは何《ど》んなだったでしょう。以前にも優して厳重に兇徒の行方を探がされたことは云う迄も無いことで厶《ござい》ます。併し依然として行方が知れぬ。そして遂々永久に行方が知れなかったので厶ます。とは云え世人の噂に依れば、これこそ赤格子九郎右衛門が、怨みある敵を討ち果たしたので、その神速の行動は即ち忍術の奥儀でありその精妙の剣の業は即ち居合の秘術であると。
 噂は事実でございました。九郎右衛門の死後その手記に、その事実が記されてあったそうです。」[#「そうです。」」は底本では「そうです。」]

     三

 以上は「緑林黒白」中の、逸話の一節を書換たものであるが此時は既に九郎右衛門は七十一歳になっていたそうで、其の老体を持ちながらそれ程の働きの出来た所を見ると、確かに居合は名人であったらしい。
 偖《さて》、それほどの剣技を
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