持ち、加之《しかも》忍術の達人たる彼九郎右衛門は其壮年時代を――特に海上雄飛時代を、どんな有様で暮らしたろう? それこそ洵《まこと》に聞物である。そして夫れこそこの私が語り度いと思う題目なのである。
 元和元年八月二十四日に――信長、秀吉の殊寵を受け、わけても関白秀吉の為めには、朝鮮征伐の地勢調査として自ら韓人に変装し、慶尚、京畿、平壌などを、詳《つまびら》かに探って復命したほどの、大貿易商であり武人である所の――島井宗室は病歿した。享年七十七であった。
 遺命を受けた九郎右衛門が、宗室の次子を家督に据え、二代目宗室の命に依って、南洋の呂宋へ旅立ったのは、其翌年の三月であった。
 此時、九郎右衛門は、三十歳、膏の乗った盛りである。蜀紅錦の陣羽織に黄金造りの太刀を佩き、手には軍扇、足には野袴、頭髪《かみ》は総髪の大髻、武者|草鞋《わらじ》をしっかと踏み締めて、船首に立った其姿! 今から追想《おも》っても凛々しいでは無いか。
 所謂今日の澎湖諸島の、漁翁島まで来た時には七月も中旬になっていた。
 船中へ真水を汲み入れるため船は数日馬公の港へ碇泊しなければならなかった。毎年の事なので島の土人
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