赤格子九郎右衛門の娘
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)寛延《かんえん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)志摩|長門守《ながとのかみ》

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(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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何とも云えぬ物凄い睨視!
 海賊赤格子九郎右衛門が召捕り処刑になったのは寛延《かんえん》二年三月のことで、所は大阪千日前、弟七郎兵衛、遊女かしく、三人同時に斬られたのである。訴え人は駕籠屋重右衛門。実名船越重右衛門と云えば阿波の大守蜂須賀侯家中で勘定方をしていた人物、剣道無類の達人である。
 係りの奉行はその時の月番東町奉行志摩|長門守《ながとのかみ》で捕方与力は鈴木利右衛門であった。
 処刑された時の九郎右衛門の年は四十五歳と註されている。彼には三人の子供があった。六松、一平、粂というのである。一平は早く病気で死に六松はお園と心中したので今に浄瑠璃に歌われている。
 お粂の消息に至っては世間知る人皆無である。しかし作者《わたし》だけは知っている。――知っていればこそこの物語を書きつづることが出来るのである。

 寛延二年から十五年を経た明和《めいわ》元年のことであったが、摂州萩の茶屋の松林に正月三日の夕陽《せきよう》が薄黄色く射していた。
 林の中に寮があった。今はすでに役を退いた志摩長門守の隠居所で、大身の旗本であったから二万石三万石の大名などより家計はかえって豊かと見えなかなか立派な寮であった。
 寮の座敷では年始の酒宴《さかもり》が、今陽気にひらかれている。
「さあさあ今日は遠慮はいらぬ。破目を外して飲んでくれ。それ一献、受けたり受けたり」
 隠居し、今は卜翁《ぼくおう》と号したが、志摩|景元《かげもと》は自分からはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]無礼講の意気を見せるのであった。
「御前もあのように有仰《おっしゃ》ります。遠慮は禁物でござります。……鈴木様、小宮山様、さあさあお過しなさりませ。おやどうなされました川島様、お酒の一斗も召し上ったように顔を真赤にお染め遊ばして、どれお酌致しましょう、もう一つおあがりなさりませ、……山崎様や、井上様、いつもお強い松井様まで、どうしたことか今日に限って一向にお逸《はず》みなされませぬな。さてはお酌がお気に召さぬそうな」
「なんのなんの飛んでもないことで。お菊様の進め上手に、つい平素《いつも》より度をすごし、眼は廻る、胸は早鐘、苦しんで居るところでございますわい」
 鈴木利右衛門はこう云いながらトンと額を叩いたものである。
「お菊お菊、構うことはない、どしどし酒を注いでやれ。何の鈴木がまだ酔うものか」
 卜翁は大変なご機嫌でこうお菊をけしかけ[#「けしかけ」に傍点]た。
 今日は五人の年始客は、卜翁が役に居った頃部下として使っていた与力であって、心の置けない連中だったので、酒が廻るに従って、勝手に破目を外し出した。袴を取って踊り出すものもあればお菊の弾《かな》でる三味線に合わせて渋い喉を聞かせるものも出て来た。それが又卜翁には面白いと見えてご機嫌はよくなるばかりである。
 騒ぎ疲労《つかれ》て静まった所で、ふと卜翁は云い出した。
「……御身《おみ》達いずれも四十以上であろうな。鈴木が年嵩で六十五か。……年を取ってもこの元気じゃもの壮年時代が思いやられる。……さればこそ一世の大海賊赤格子九郎右衛門も遁れることが出来ず、御身達の手に捕えられたのじゃ。……いや全く今から思ってもあれ[#「あれ」に傍点]は大きな捕物であったよ」
「はい左様でございますとも」
 鈴木利右衛門が膝を進めた。
「まさか海賊赤格子が身分を隠して陸へ上り、安治川《あじかわ》一丁目へ酒屋を出し梶屋などという屋号まで付けて商売をやって居ようなどとは夢にも存ぜず居りました所へ、重右衛門の訴人で左様と知った時には仰天したものでございます。……番太まで加えて百人余り、キリキリと家は取り巻いたものの相手は名に負う赤格子です、どんな策略があろうも知れずと、今でこそお話し致しますが尻込みしたものでございます」
「九郎右衛門めは奥の座敷で酒を呑んでいたそうじゃな」
「我々を見ても驚きもせず、悠々と呑んで居りました。その大胆さ小面憎さ、思わずカッと致しまして、飛び込んで行ったものでございます」
「そうしてお前がたった一人で家の中へ飛び込んで行き、九郎右衛門に傷《て》を負わせたため、さすがの九郎右衛門も自由を失い捕えられたということじゃな」
「先ず左様でございますな」
 利右衛門はいくらか得意そうに、こう云って頭を下げたものである。
 先刻《さっき》から恐ろしい熱心をもって話を聞いていた美しいお菊は、どうしたものか利右衛門の顔をこの時横眼で睨んだものである。
 何とも云えぬ物凄い睨視《にらみ》! 何とも云えぬ殺伐な睨視!

貴殿の背中に白い糸屑が!
 しかし勿論誰一人としてお菊の顔色の変わったことに不審を打とうとするものはなかった。
 尚ひとしきり赤格子の噂で酒宴の席は賑わった。その中《うち》日が暮れ夜となった。銀燭が華やかに座敷に点《とも》り肴が新しく並べられ一座はますます興に入り夜の更けるのを知らないようである。
 今の時間にして十時過ぎになるとさすがに人々は騒ぎ疲労たらしく次第に座敷は静かになった。
「私少しく遠方でござれば失礼ながらこれで中座を」
 こう云って利右衛門は腰を浮かせた。
「もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな」
「はい玉造でございますので」
「お前が帰ると云ったなら他の連中も遠慮して一時にバタバタ立ち上ろうもしれぬ。……それでは私《わし》が寂しいではないか」と卜翁は子供のように云うのであった。
 それでもとうとう利右衛門だけは中座することを許された。それに小宮山彦七も同じく玉造に家があったのでこれも一緒に帰ることになった。二人はお菊に送られて、定まらぬ足付きで玄関まで来ると、掛けてあった合羽を取ろうとした。
「いえお着せ致しましょう」
 お菊が代わって素早く取る。
「これはこれは恐縮千万」
 など、二人は云いながらも、素晴らしい別嬪の優しい手でフワリと肩へ掛けられるのだから悪い気持もしないらしい。戸外《そと》には下男の忠蔵が、身分にも似ない小粋な様子で提燈《ちょうちん》を持って立っていたが、
「|戎ノ宮《えびすのみや》の藪畳まで、私めお送り申しましょう」
「それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう」
 云いながら利右衛門は手を出した。忠蔵はちょっと渋ったが、それでも提燈は手渡した。
「では、お菊様、よろしくな」
 云いすてて二人は歩き出す。
「お大事においで遊ばしませ」
 お菊はつつましく手を突いて二人の姿を見送ったが、その眼を返すと忠蔵を見た。
 と、忠蔵もお菊を見た。
 二人は意味深く笑ったものである。

 霜夜に凍った田舎路を、一つの提燈に先を照らし、彦七と利右衛門とは歩いて行く。
「お互い金は欲しいものじゃ」
 利右衛門はふと[#「ふと」に傍点]こんなことを云った。
「はてね」と彦七は笑い声を立て、
「今更らしく何を有仰《おっしゃ》る」
「立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな」
「ははアなるほど、そのことでござるかな」
 彦七もどうやら胸に落ちたらしく、
「羨しいと申そうか小腹が立つと申そうか、今年六十二の卜翁が曾孫のような十八娘をああやっ[#「ああやっ」に傍点]て側へ引き付けて、我々にまで見せ付けられる。……その又|妾《めかけ》のお菊というのが、眼の覚めるほど綺麗な上に利口者の世辞上手。……」
「しかも今から一月ほど前に抱えた妾だと申すことじゃ。閨《ねや》の中まで思い遣られてなアッハハハ」と利右衛門は、卑しい笑い声を立てたものである。
 とたんに利右衛門は躓いた。
「あ痛!」と叫んで俯向いた。指の先でも打ったらしい。
 一足おくれて歩いていた小宮山彦七は驚いて、つと側へ寄って行ったが、
「あっ!」と叫んで立ち縮んだ。
「大変でござるぞ鈴木氏!」
「なに大変?」と利右衛門の方がかえって驚いて背を延ばしたが、
「はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!」
「き、貴殿の……せ、背中に……」
「拙者の背中に何がござるな?」
「し、白い、……い、糸屑が……」
「ヒエーッ」と、利右衛門はのけぞっ[#「のけぞっ」に傍点]たが、よろよろと二三歩後へ退った。
 ……と見るや彦七の背中にも一房の白糸が下っている。
「や、や、貴殿の背中にも。……やっぱり同じ白糸が!」
「うわ!」と彦七はそれを聞くと、生気地なくベタベタと地へ坐った。
「エイ!」と右手の藪陰からその時に鋭い掛声が掛かった。
「うむう」と同時に呻き声がした。クルリ体を廻したかと思うと、仰向けに利右衛門は転がった。鋭利な削竹《そぎたけ》が節元まで深く咽喉に差さっている。
「人殺し!」と、彦七はやにわに喚いて飛び上ったが、
 それより早く藪陰からまたも同じ掛声がした。……声《こえ》と一|緒《しょ》に彦《ひこ》七も霜の大地へころがった。
 削竹が咽喉に立っている。

大阪界隈怪盗横行
 後は森然《しん》と静かである。
 さっきから今にも泣き出しそうにどんより[#「どんより」に傍点]曇っていた低い空から霙《みぞれ》がパラパラと降って来たが、それさえほん[#「ほん」に傍点]の一|瞬間《しきり》で、止んだ後は尚さびしい。
 藪がにわかにガサガサと揺れた。
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と黒い人影が出る。頬冠りに尻|端折《はしょ》り、腰の辺りに削竹が五六本たばね[#「たばね」に傍点]られて差さっている。四辺《あたり》を静かに窺ってからつと[#「つと」に傍点]死骸へ近寄った。死骸の懐中《ふところ》へ手を突っ込むと財布をズルズルと引き出した。自分の懐中へツルリと入れる。雲切れがして星が出た。
 仄かに曲者の顔を照らす。
 曲者は下男の忠蔵であった。

「白糸」「削竹」のこの二つは、当時大阪を横行していた一群の怪賊の合言葉であった。そうして慣用の符号《マーク》でもあった。
 白い糸屑を付けられた「者」は必ず殺されなければならなかった。――又白い糸屑を付けられた「家」は必ず襲われなければならなかった。
 この怪奇な盗賊の群は今から数えて半年程前から大阪市中へは現われたのであって、一旦現われるや倏忽の間にその勢力を逞しゅうし、大阪市人の恐怖となった。
 噂によれば彼等の群はほとんど百人もあるらしく、しかも頭領は人もあろうに妙齢の美女だということであった。――彼等は平気で殺人もしたが町人や百姓には眼もくれず、定《き》まって武士《さむらい》へ向かって行き、好んで町奉行配下の士を暗殺するということであった。
 これも同じく噂ではあったが、この盗賊の一群は、大阪市中を流れている蜘蛛手のような堀割を利用し、帆船|端艇《はしけ》を繰り廻し、思う所へ横付けにし、電光石火に仕事を行《や》り、再び船へ取って返すや行方をくらますということであった。
 勿論東西の町奉行は与力同心に命を含め、この不届きの盗賊共を一網打尽に捕えようとして様々肺肝を砕くのではあったが、彼等の方が上手と見えいつも後手へ廻されていた。
 そのうち、鈴木利右衛門と小宮山彦七が殺されたのであった。昔名与力と謳われた二人がいかに年を取ったとは云え、刀を抜き合わせる暇《いとま》もなくむざむざ削竹に咽喉を貫ぬかれ、惨殺されたということは、一面から云えば不覚ではあったが、他面彼等盗賊の群がいかに強いかということの新しい証拠ともなるのであって、有司にとっても市民にとっても恐ろしく思われたのは云うまでもない。

「お菊や」と卜翁はお菊の部屋で、お菊の立ててくれた茶をすすりながら、何気ない調子で話した。
「私はこの頃元気がな
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