い。そして漸時《だんだん》痩せるような気がする。お菊お前には気が付かぬかな?」
「はい」とお菊は艶かに笑い、
「かえってこの頃お殿様はお健かにおなり遊ばしました。以前は夜などお苦しそうで容易にお睡り遊ばさず、徹夜《よあかし》したことなどもございましたが、この頃では大変楽々とお睡り遊ばすようでござります」
「そこだ」と卜翁は首をかしげ、
「すこしどうも睡り過ぎるようだ。……毎晩お前の立ててくれるこの一杯の薄茶を飲むと、地獄の底へでも引き込まれるようににわかに深い睡眠《ねむり》に誘われ、そのまま昏々睡ったが最後、明けの光の射す迄はかつて眼を覚ましたことはない」
「まアお殿様、何を有仰《おっしゃ》ります」
 お菊は柳眉をキリリと上げた。
「何か妾《わたし》がお殿様へ、毒なものでも差し上げるような、その惨酷《むご》い仰せられよう。あんまりでござんすあんまりでござんす。……それほど疑がわしく覚し召さば一層お暇を下さいまし。きっと生きては居りませぬ。淵川へなりと身を投げて……」
「ああこれこれ何を申す。……何のお前を疑うものか。暇くれなどとはもっての他じゃ。手放し難いは老後の妾《めかけ》と、ちゃんと下世話にもあるくらい、お前に行かれてなるものか。……とは云えどうもこの薄茶が……」
「お厭ならお捨なさりませ」
 お菊はツンと横を向いた。
「アッハハハ、また憤《おこ》ったか。そう老人《としより》を虐めるものではない。せっかくお前の立てた薄茶、捨るなどとは勿体ない話。どれそれでは。いいお手前じゃ」
 指で拭って前へ置き、その指を懐中《ふところ》の紙で拭いた。ともう睡気に襲われるのであった。
「プッ」とお菊は吹き出した。
「この寝顔のだらしなさ。昔の奉行が聞いて呆れるよ」

塩田の忠蔵身の上話
 コツコツコツコツと部屋の襖を窃《そっ》と指で打つ者がある。
「忠さんかえ、お入りよ」……お菊は云いながら襖をあけた。
 入って来たのは忠蔵である。
「姐御、首尾は? と云う所だが、首尾はいいに定《き》まっている。……さあソロソロ出かけやしょうぜ」
「あいよ」と云いながら立膝をして、煙草をパクパク吹かしている。
「忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶《ふか》のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ」
「全く人間年を取ってはからしき[#「からしき」に傍点]駄目でござんすね」
「生命《いのち》を狙う仇敵《てき》とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう」
「うへえ、姐御、惚気ですかい」
「と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっ[#「ふっ」に傍点]と怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ」
「南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう」
「一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解《と》かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ」
「しかし迂闊《うっか》り[#「迂闊《うっか》り」は底本では「迂闊《うっかり》り」]油断するとあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品《もの》も人間《ひと》も揃いやした。片付けるもの[#「もの」に傍点]は片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな」
「それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね」
「何も買入れた品物じゃなし、資本《もとで》いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ[#「ぐれ」に傍点]蛤《はま》になろうもしれず……」
「おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ」
 お菊はニヤリと嘲笑った。
「姐御に逢っちゃ適《かな》わない。私《わっち》は案外臆病者でね。……そりゃ肩書もござんすが、この肩書の塩田というのが、そもそもヤクザの証拠でね、私の国は播州赤穂、塩田事業の多い所で、私の家もお多分に洩れず、山屋といって塩造、土地でも一流の方でしたが、鷹の産んだ鳶とでも云おうか、産まれながらこの私だけ、誰にも似ない無頼漢《やくざもの》、十五の時から家を抜け出し今年で二十年三十五歳、国へも家へも寄り付かず気儘にくらして居りましたところ、今から数えて十八年前、人の噂で聞いたところ、私の一家は海賊に襲われ、その時漸く五つになった妹のお浪たった一人だけ、乳母に抱かれて逃げたばかり後は残らず殺されたとか。……驚いても悲しんでも過ぎ去ったことはどうにもならず、それから一層邪道に入り今では立派な夜働き、しかし魂は腐っても兄妹の情は切っても切れず、一人生き残った妹お浪を右腕の痣を証拠にして探しあてようとこの年月心掛けては居りやすが、いまだに在家《ありか》の知れないのは運の尽きか死んだのか、心残りでございますよ。……なアんて詰まらない身の上話に大事な時を無駄にした。さあ姐御、参りやしょう。仲間が待って居りやしょうに」
 二人はスルリと部屋を出た。
 後には卜翁の寝息ばかりがさも安らかに聞こえている。

誰白浪の夜働
 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。
 夜桜の候となったのである。
 ここは寂しい木津川《きつがわ》縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。
 と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。
「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」
 ――とたんに若い女の声で、
「あれッ」と云う声が聞こえてきた。
 はっ[#「はっ」に傍点]と驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、
「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇《ひし》と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しか[#「しか」に傍点]と抱き、
「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな[#「こんな」に傍点]所においでなさんす」
「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、
「はい、妾《わたし》は京橋の者、悪漢共に誘拐《かどわか》され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」
「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢《わるもの》が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」
「はい有難う存じます」
 こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、
「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」
「ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……」
 袖で顔をかくしたが、
「こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。――どうやら吃驚《びっくり》なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心《うぶ》の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……」
「おお落ちて居りましたか?」
「中味を見れば二百両」
「え、二百両? むうう、大金!」
「はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……」
「見付かりましたか、落し主は?」
「いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました」
「それでは財布はそっくり[#「そっくり」に傍点]その儘……」
「妾の懐中《ふところ》にござんすとも」
「おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障《さわ》らせておくれ」
 グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。
「あれ!」と云う間もあらばこそ、ズルズルと財布は引き出された。
「それじゃお前は泥棒だね!」
「今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!」
「泥棒! 泥棒!」と喚き立てる夜鷹。
「ええ八釜敷《やかましい》!」とサット突く。
 ドンという水の音。パッと立つ水煙り。夜鷹は木津川へ投げ込まれた。
 その時、黒い人影が川下の方から走って来たが、
「そこに居るのは姐御じゃねえか」
 近寄るままに声を掛ける。
「ああ忠さんかいどうおしだえ?」
「ひでえ目に逢いましたよ」
「眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体|縮尻《しくじっ》たんだえ?」
「何ね中之島の蔵屋敷前で、老人《としより》の武士《りゃんこ》を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ」
 聞くとお菊はプッと吹き出し、
「落とした金は二百両かえ?」
「へえ、いかにも二百両で……」
「革の財布に入れたままで?」
「こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!」
「女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね」
「…………」
「何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り」

「殿様、今夜は漁《と》れましょうぜ。潮の加減でわかりまさあ」
 ギーギーと櫓を漕ぎながら漁師は元気よく云うのであった。
「おお漁れそうかな。それは有難い網の上らぬほど漁りたいものだ」
 船の中から老武士が髯を撫しながら悠然と云った。それは志摩卜翁であった。
「殿様、塩梅《あんべえ》が悪いそうだね」
「どうも体がよくないよ」
「若い女子ばかり傍《そば》へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ」
「アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷《てひ》どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網《とあみ》をやりだしたのさ」
「投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!」
「どうした?」と卜翁は膝を立てた。
「お客様だア! 土左衛門でごわす!」

不思議な邂逅
「なに、水死人だ? それ引き上げろ!」
 卜翁は烈しく下知をした。そうして自分も手伝って若い女の死骸を上げた。
「漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ」
「へえへえ宜敷うござります」
 漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。
 卜翁は女の鳩尾《みぞおち》の辺りへじっと片手を当てて見たが、
「うむ、有難い、体温《ぬくみ》がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々《おやじおやじ》もっと漕げ!」
「へえへえ宜敷うござります」
 船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛《はし》って行く。

 その翌日のことであった。
 落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭《ちん》の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほん[#「とほん」に傍点]としたような顔をして当てもなく四辺《あたり》を眺めている。
「姐御、変なことになりましたぜ」
 忠蔵は窃《そ》っと囁いた。
「昨夜《ゆうべ》の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」
「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐《たま》ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露《ばれ》ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」
「姐御、
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング