逃げやしょう。逃げるが勝だ」
「そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ」
「と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ」
「とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない」
「へえそれじゃこの私《あっし》に様子を見ろと仰有《おっしゃ》るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね」
 お菊は返辞をしなかった。
 陽が次第に暮れて来る。

 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。三日見ぬ間に散るという桜の花は名残なく散り、昔のことなど思い出される、山吹の花の季節となった。
 この頃水死から助けられた辻君のお袖は元気を恢復し、卜翁の好意ある進めに従い、穢わしい商売から足を洗い、一つは卜翁への恩返し、小間使いとして働くことになり、病気と云って誰にも逢わず離れ座敷に引き籠もっている妾《めかけ》のお菊の代理として今では卜翁の身の廻りまで手伝う身分となっていた。
 日向《ひあた》りのよい離れ座敷の丸窓の下で出逢ったのは、そのお袖と忠蔵とである。
「おや忠さん、いい天気だね」
「そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう」
 云いすてて忠蔵は行き過ぎようとした。
「ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか」
「なアに別に逃げはしないが、それ諺《ことわざ》にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね」
「でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった[#「たった」に傍点]一つだけ訊きたいことがあるのだよ」
「そりゃ一体どんなことだね?」
 しかたなく忠蔵はこう云った。
「他でもないが二十日ほど前、それも夜の夜中にね、大阪難波桜川辺りを通ったことはなかったかね?」
 ――そりゃこそお出でなすったは。こう忠蔵は思ったもののそんな気振はおくび[#「おくび」に傍点]にも出さず。
「いいや、ないね。通ったことはない」
「それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね」
「夜目遠目傘の中他人の空似ということもある」
「それじゃやっぱり人違いかねえ」
 お袖はじっと思案したが、
「なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」
「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」
 わざ[#「わざ」に傍点]ととぼ[#「とぼ」に傍点]けて忠蔵は訊く。
「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」
「おやおや広い世間にとぼ[#「とぼ」に傍点]けた野郎があるものだね」
 ポンと自分の額を叩き、
「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」
「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。
「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」

南無三宝! 絶体絶命!
「妾の前身でござんすか」
 お袖はにわかに眼をしばたたき、
「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」
「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」
「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」
「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」
 忠蔵は急に真顔になった。
「はい、山屋と云いましたよ」
「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。
「それじゃもしや本名は……」
「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」
「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」
「どうして詳くそんな事まで……」
 不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちり[#「むっちり」に傍点]と白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。
「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚《よろめ》くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。
 仲間の掟は山より重い。頭領《かしら》の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。
「南無三宝! 絶体絶命!」
 腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首《あいくち》を抜いた途端、
「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。
「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタとお袖は走って行った。
 胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、
「おい忠蔵!」とお菊の声。
 無言で忠蔵は眼を上げた。
「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。
 しかし忠蔵は黙っている。
「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭《はっきり》とお云い! 妾に従《つ》くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」
「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。
「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」
「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」
「え! 罪もねえ妹を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「妾も卜翁をばらす[#「ばらす」に傍点]からさ」
「その卜翁は姐御の敵。ばらす[#「ばらす」に傍点]というのも解《わか》っているが、妹には罪も咎もねえ」
「それでは厭だと云うのかい?」
 お菊はキリリと眉を上げた。
「…………」
 忠蔵は歯を噛むばかりである。
「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。
「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。
「うん」と忠蔵は頷いたが。
「姐御々々やっつけ[#「やっつけ」に傍点]やしょう!」
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 丸窓の奥からお菊が云った。
「後夜の鐘の鳴る頃に……」
 忠蔵がそれをなぞって[#「なぞって」に傍点]行く。
「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」

怨みは深し畜生道
 やがて日が暮れ夜となった。
 夜は森々《しんしん》と更けている。
 卜翁の部屋は静かである――お袖とそして卜翁とが、今、しめやかに話している。
「さてお袖」と卜翁は、真面目の口調で改めて云った。
「水死を助けてこの家へ置き、ひそかに様子を見ていると、前身夜鷹とは思われないほど行儀正しい立居振舞。さて不思議と思っていたが、今のお前の物語でよくお前の素性も解《わか》った。播州赤穂の山屋といえば大阪までも響いていた立派な塩の製造業。そこの娘とあるからはなるほど行儀もよいはずじゃ。氏より育ちとは云うけれど、やはり氏がよくなければどことなく品が落ちるものじゃ。……そこでお前に訊くことがある。十八年前海賊が突然お前の実家を襲い一家惨殺した上に家財をあげて奪ったという、その海賊の頭領の名を、其方《そち》はどうやら知らぬらしいの」
「はい」とお袖は打ち湿り。
「ただ恐ろしい海賊が、ある夜海から襲って参り、妾の家を惨酷《むごたら》しく、滅して行ったと聞いたばかり、妾はその時僅か五歳《いつつ》、乳母に抱かれて山手へ逃げ、そのまま乳母の実家で育ち、十五の春まで暮らしましたが乳母が病気で死にましてからは、日に日に悲しいことばかり、とうとう人外の夜鷹とまで零落《おちぶ》れましてござりますが、いまだに海賊の名も知らず残念に存じて居りまする」
「そうであろうと察していた。……その海賊が何者であるか俺《わし》が教えて進ぜよう」
「え」とお袖は驚いた。
「おおそれではお殿様にはご存じなのでござりますか?」
「おお俺は知って居る」
 卜翁は白髯をしごいたが、
「俺は海賊の本人から親しく聞いて知って居るのじゃ」
 卜翁は遠い昔のことでも思い出そうとするかのように軽くその眼を瞑ったが。
「あの頃俺は官に居た。長門守《ながとのかみ》と守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ[#「ひっ」に傍点]捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。その赤格子九郎右衛門こそ其方《そなた》にとっては父母の仇又一家の仇なのじゃ」
 ふと[#「ふと」に傍点]卜翁は話をやめた。そうして耳を傾けた。廊下に当たってミシリという人の足音が聞こえたからである。
 誰か立聞きでもしているらしい。
「誰じゃ!」と卜翁は声を掛けた。
 しかし答える者もない。
 と、その時近くの寺で、搗き鳴らすらしい鐘の音がボーンと尾を曳いて聞こえてきた。
「おおもう後夜か」と指を折る。
 その時庭の離れ座敷から三味線の音が聞こえてきた。唄うは何? 江戸唄らしい。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]ほんに思えば昨日今日
…………
[#ここで字下げ終わり]
 それはお菊の声であった。
「人を避けて籠っていたが、今夜は気分がよいと見えて、あのように唄をうとうている」
 卜翁は機嫌よく呟いた。
 とミシリと音がする。
「お袖ちょっと見て参れ!」
「はい」と云って立ち上り廊下の方へクルリと向く。背後《うしろ》姿に眼を付けた卜翁。
「おっ! 白糸!」と声を上げた。
 とたんに「エイッ」と鋭い掛声。障子を貫いた削竹《そぎたけ》がお袖の喉に突立った。
 やにわに刀をひっさげて。
「曲者!」と卜翁は飛び上る。
「あッ」という苦痛の声。続いて「むう」と云う唸り声が廊下にあたって聞こえてきた。
 颯《さっ》と卜翁は障子を開けた。その眼前《めのまえ》の廊下の上にのた[#「のた」に傍点]打っているのは忠蔵である。我と我喉を削竹で裏掻くまでに突き刺している。片手にもったは封無しの書面。「ご主人様へ」と血で書いてある。
 卜翁はつと[#「つと」に傍点]取り上げた行燈の燈で読んで行く。
 ――こういう意味のことが書かれてある。
 我《わたし》は賊でございます。海賊赤格子九郎右衛門の娘本名お粂、今の名はお菊、すなわち殿様のご愛妾、お菊殿の一の乾児、海蛇の忠蔵とは私のこと。殿様のお命を害《あや》めんためお菊殿共々お屋敷へ住み込み、機会を窺って居りました次第。とは云え性来の海賊ではなく産れは播州赤穂城下、塩田業山屋こそは私の実家でござります。……
「何」と卜翁は驚いた。
「山屋の倅《せがれ》というからには、このお袖とは兄妹じゃ。それを殺すとは不思議千万。待て待て後を読んで見よう」

この危難に三味線の音
 ――手紙の文字は尚つづく。
「……知らぬこととは云いながら兄妹契りを結ぶとは取りも直さず畜生道。二人ながら活きては居られず、かつは頭領《かしら》の命令《いいつけ》もあり、今宵忍んで妹めを打ち果たしましてござります。……」
 ここまで読んで来て卜翁は初めて意味が解ったと見え、手紙をクルクルと巻き納めた。それからお袖の側《そば》へ寄り静かに体を抱き起こした。
 もう呼吸《いき》は絶えている。
 卜翁は忠蔵を抱き起こした。
 と、忠蔵は眼を開けた。
「これ忠蔵」と忍び音に卜翁は耳元で呼ばった。
「様子は解った気の毒な身の上。卜翁の命を狙ったことも決して怨みには思わぬぞ。お袖は死んだ。お前も死ね」
「ああ有難う存じます」
「ただし一つ合点のゆかぬは、山屋を滅ぼした赤格子一家は其方《そち》の仇じゃ。しかるを何故その赤格子の一味徒党とはなったるぞ
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