ら親しく聞いて知って居るのじゃ」
 卜翁は遠い昔のことでも思い出そうとするかのように軽くその眼を瞑ったが。
「あの頃俺は官に居た。長門守《ながとのかみ》と守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ[#「ひっ」に傍点]捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。その赤格子九郎右衛門こそ其方《そなた》にとっては父母の仇又一家の仇なのじゃ」
 ふと[#「ふと」に傍点]卜翁は話をやめた。そうして耳を傾けた。廊下に当たってミシリという人の足音が聞こえたからである。
 誰か立聞きでもしているらしい。
「誰じゃ!」と卜翁は声を掛けた。
 しかし答える者もない。
 と、その時近くの寺で、搗き鳴らすらしい鐘の音がボーンと尾を曳いて聞こえてきた。
「おおもう後夜か」と指を折る。
 その時庭の離れ座敷から三味線の音が聞こえてきた。唄うは何? 江戸唄らしい。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]ほんに思えば昨日今日
…………
[#ここで字下げ終わり]
 それはお菊の声であった。
「人を避けて籠っていたが、今夜は気分がよいと見えて、あのよ
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