漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。
 卜翁は女の鳩尾《みぞおち》の辺りへじっと片手を当てて見たが、
「うむ、有難い、体温《ぬくみ》がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々《おやじおやじ》もっと漕げ!」
「へえへえ宜敷うござります」
 船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛《はし》って行く。

 その翌日のことであった。
 落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭《ちん》の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほん[#「とほん」に傍点]としたような顔をして当てもなく四辺《あたり》を眺めている。
「姐御、変なことになりましたぜ」
 忠蔵は窃《そ》っと囁いた。
「昨夜《ゆうべ》の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」
「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐《たま》ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露《ばれ》ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」
「姐御、
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