ん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ」
「全く人間年を取ってはからしき[#「からしき」に傍点]駄目でござんすね」
「生命《いのち》を狙う仇敵《てき》とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう」
「うへえ、姐御、惚気ですかい」
「と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっ[#「ふっ」に傍点]と怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ」
「南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう」
「一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解《と》かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ」
「しかし迂闊《うっか》り[#「迂闊《うっか》り」は底本では「迂闊《うっかり》り」]油断するとあべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品《もの》も人間《ひと》も揃いやした。片付けるもの[#「もの」に傍点]は片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな」
「それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね」
「何も買入れた品物じゃなし、資本《もとで》いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ[#「ぐれ」に傍点]蛤《はま》になろうもしれず……」
「おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ」
 お菊はニヤリと嘲笑った。
「姐御に逢っちゃ適《かな》わない。私《わっち》は案外臆病者でね。……そりゃ肩書もござんすが、この肩書の塩田というのが、そもそもヤクザの証拠でね、私の国は播州赤穂、塩田事業の多い所で、私の家もお多分に洩れず、山屋といって塩造、土地でも一流の方でしたが、鷹の産んだ鳶とでも云おうか、産まれながらこの私だけ、誰にも似ない無頼漢《やくざもの》、十五の時から家を抜け出し今年で二十年三十五歳、国へも家へも寄り付かず気儘にくらして居りましたところ、今から数えて十八年前、人の噂で聞いたところ、私の一家は海賊に襲われ、その時漸く五つになった妹のお浪たった一人だけ、乳母に抱かれて逃げたばかり後は残らず殺されたとか。……驚いても悲しんでも過ぎ去ったことはどうにもならず、それから一層邪道に入り今では立派な夜働き、しかし魂は腐っても兄妹の情は切っても切れず、一人生き残った妹お浪を右腕の痣を証拠にして探しあてようとこの年月心掛けては居りやすが、いまだに在家《ありか》の知れないのは運の尽きか死んだのか、心残りでございますよ。……なアんて詰まらない身の上話に大事な時を無駄にした。さあ姐御、参りやしょう。仲間が待って居りやしょうに」
 二人はスルリと部屋を出た。
 後には卜翁の寝息ばかりがさも安らかに聞こえている。

誰白浪の夜働
 こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。
 夜桜の候となったのである。
 ここは寂しい木津川《きつがわ》縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。
 と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。
「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」
 ――とたんに若い女の声で、
「あれッ」と云う声が聞こえてきた。
 はっ[#「はっ」に傍点]と驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、
「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇《ひし》と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しか[#「しか」に傍点]と抱き、
「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな[#「こんな」に傍点]所においでなさんす」
「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、
「はい、妾《わたし》は京橋の者、悪漢共に誘拐《かどわか》され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」
「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢《わるもの》が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」
「はい有難う存じます」
 こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、
「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」
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