しきり》で、止んだ後は尚さびしい。
 藪がにわかにガサガサと揺れた。
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と黒い人影が出る。頬冠りに尻|端折《はしょ》り、腰の辺りに削竹が五六本たばね[#「たばね」に傍点]られて差さっている。四辺《あたり》を静かに窺ってからつと[#「つと」に傍点]死骸へ近寄った。死骸の懐中《ふところ》へ手を突っ込むと財布をズルズルと引き出した。自分の懐中へツルリと入れる。雲切れがして星が出た。
 仄かに曲者の顔を照らす。
 曲者は下男の忠蔵であった。

「白糸」「削竹」のこの二つは、当時大阪を横行していた一群の怪賊の合言葉であった。そうして慣用の符号《マーク》でもあった。
 白い糸屑を付けられた「者」は必ず殺されなければならなかった。――又白い糸屑を付けられた「家」は必ず襲われなければならなかった。
 この怪奇な盗賊の群は今から数えて半年程前から大阪市中へは現われたのであって、一旦現われるや倏忽の間にその勢力を逞しゅうし、大阪市人の恐怖となった。
 噂によれば彼等の群はほとんど百人もあるらしく、しかも頭領は人もあろうに妙齢の美女だということであった。――彼等は平気で殺人もしたが町人や百姓には眼もくれず、定《き》まって武士《さむらい》へ向かって行き、好んで町奉行配下の士を暗殺するということであった。
 これも同じく噂ではあったが、この盗賊の一群は、大阪市中を流れている蜘蛛手のような堀割を利用し、帆船|端艇《はしけ》を繰り廻し、思う所へ横付けにし、電光石火に仕事を行《や》り、再び船へ取って返すや行方をくらますということであった。
 勿論東西の町奉行は与力同心に命を含め、この不届きの盗賊共を一網打尽に捕えようとして様々肺肝を砕くのではあったが、彼等の方が上手と見えいつも後手へ廻されていた。
 そのうち、鈴木利右衛門と小宮山彦七が殺されたのであった。昔名与力と謳われた二人がいかに年を取ったとは云え、刀を抜き合わせる暇《いとま》もなくむざむざ削竹に咽喉を貫ぬかれ、惨殺されたということは、一面から云えば不覚ではあったが、他面彼等盗賊の群がいかに強いかということの新しい証拠ともなるのであって、有司にとっても市民にとっても恐ろしく思われたのは云うまでもない。

「お菊や」と卜翁はお菊の部屋で、お菊の立ててくれた茶をすすりながら、何気ない調子で話した。
「私はこの頃元気がない。そして漸時《だんだん》痩せるような気がする。お菊お前には気が付かぬかな?」
「はい」とお菊は艶かに笑い、
「かえってこの頃お殿様はお健かにおなり遊ばしました。以前は夜などお苦しそうで容易にお睡り遊ばさず、徹夜《よあかし》したことなどもございましたが、この頃では大変楽々とお睡り遊ばすようでござります」
「そこだ」と卜翁は首をかしげ、
「すこしどうも睡り過ぎるようだ。……毎晩お前の立ててくれるこの一杯の薄茶を飲むと、地獄の底へでも引き込まれるようににわかに深い睡眠《ねむり》に誘われ、そのまま昏々睡ったが最後、明けの光の射す迄はかつて眼を覚ましたことはない」
「まアお殿様、何を有仰《おっしゃ》ります」
 お菊は柳眉をキリリと上げた。
「何か妾《わたし》がお殿様へ、毒なものでも差し上げるような、その惨酷《むご》い仰せられよう。あんまりでござんすあんまりでござんす。……それほど疑がわしく覚し召さば一層お暇を下さいまし。きっと生きては居りませぬ。淵川へなりと身を投げて……」
「ああこれこれ何を申す。……何のお前を疑うものか。暇くれなどとはもっての他じゃ。手放し難いは老後の妾《めかけ》と、ちゃんと下世話にもあるくらい、お前に行かれてなるものか。……とは云えどうもこの薄茶が……」
「お厭ならお捨なさりませ」
 お菊はツンと横を向いた。
「アッハハハ、また憤《おこ》ったか。そう老人《としより》を虐めるものではない。せっかくお前の立てた薄茶、捨るなどとは勿体ない話。どれそれでは。いいお手前じゃ」
 指で拭って前へ置き、その指を懐中《ふところ》の紙で拭いた。ともう睡気に襲われるのであった。
「プッ」とお菊は吹き出した。
「この寝顔のだらしなさ。昔の奉行が聞いて呆れるよ」

塩田の忠蔵身の上話
 コツコツコツコツと部屋の襖を窃《そっ》と指で打つ者がある。
「忠さんかえ、お入りよ」……お菊は云いながら襖をあけた。
 入って来たのは忠蔵である。
「姐御、首尾は? と云う所だが、首尾はいいに定《き》まっている。……さあソロソロ出かけやしょうぜ」
「あいよ」と云いながら立膝をして、煙草をパクパク吹かしている。
「忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶《ふか》のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さ
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