熱心をもって話を聞いていた美しいお菊は、どうしたものか利右衛門の顔をこの時横眼で睨んだものである。
 何とも云えぬ物凄い睨視《にらみ》! 何とも云えぬ殺伐な睨視!

貴殿の背中に白い糸屑が!
 しかし勿論誰一人としてお菊の顔色の変わったことに不審を打とうとするものはなかった。
 尚ひとしきり赤格子の噂で酒宴の席は賑わった。その中《うち》日が暮れ夜となった。銀燭が華やかに座敷に点《とも》り肴が新しく並べられ一座はますます興に入り夜の更けるのを知らないようである。
 今の時間にして十時過ぎになるとさすがに人々は騒ぎ疲労たらしく次第に座敷は静かになった。
「私少しく遠方でござれば失礼ながらこれで中座を」
 こう云って利右衛門は腰を浮かせた。
「もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな」
「はい玉造でございますので」
「お前が帰ると云ったなら他の連中も遠慮して一時にバタバタ立ち上ろうもしれぬ。……それでは私《わし》が寂しいではないか」と卜翁は子供のように云うのであった。
 それでもとうとう利右衛門だけは中座することを許された。それに小宮山彦七も同じく玉造に家があったのでこれも一緒に帰ることになった。二人はお菊に送られて、定まらぬ足付きで玄関まで来ると、掛けてあった合羽を取ろうとした。
「いえお着せ致しましょう」
 お菊が代わって素早く取る。
「これはこれは恐縮千万」
 など、二人は云いながらも、素晴らしい別嬪の優しい手でフワリと肩へ掛けられるのだから悪い気持もしないらしい。戸外《そと》には下男の忠蔵が、身分にも似ない小粋な様子で提燈《ちょうちん》を持って立っていたが、
「|戎ノ宮《えびすのみや》の藪畳まで、私めお送り申しましょう」
「それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう」
 云いながら利右衛門は手を出した。忠蔵はちょっと渋ったが、それでも提燈は手渡した。
「では、お菊様、よろしくな」
 云いすてて二人は歩き出す。
「お大事においで遊ばしませ」
 お菊はつつましく手を突いて二人の姿を見送ったが、その眼を返すと忠蔵を見た。
 と、忠蔵もお菊を見た。
 二人は意味深く笑ったものである。

 霜夜に凍った田舎路を、一つの提燈に先を照らし、彦七と利右衛門とは歩いて行く。
「お互い金は欲しいものじゃ」

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