利右衛門はふと[#「ふと」に傍点]こんなことを云った。
「はてね」と彦七は笑い声を立て、
「今更らしく何を有仰《おっしゃ》る」
「立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな」
「ははアなるほど、そのことでござるかな」
彦七もどうやら胸に落ちたらしく、
「羨しいと申そうか小腹が立つと申そうか、今年六十二の卜翁が曾孫のような十八娘をああやっ[#「ああやっ」に傍点]て側へ引き付けて、我々にまで見せ付けられる。……その又|妾《めかけ》のお菊というのが、眼の覚めるほど綺麗な上に利口者の世辞上手。……」
「しかも今から一月ほど前に抱えた妾だと申すことじゃ。閨《ねや》の中まで思い遣られてなアッハハハ」と利右衛門は、卑しい笑い声を立てたものである。
とたんに利右衛門は躓いた。
「あ痛!」と叫んで俯向いた。指の先でも打ったらしい。
一足おくれて歩いていた小宮山彦七は驚いて、つと側へ寄って行ったが、
「あっ!」と叫んで立ち縮んだ。
「大変でござるぞ鈴木氏!」
「なに大変?」と利右衛門の方がかえって驚いて背を延ばしたが、
「はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!」
「き、貴殿の……せ、背中に……」
「拙者の背中に何がござるな?」
「し、白い、……い、糸屑が……」
「ヒエーッ」と、利右衛門はのけぞっ[#「のけぞっ」に傍点]たが、よろよろと二三歩後へ退った。
……と見るや彦七の背中にも一房の白糸が下っている。
「や、や、貴殿の背中にも。……やっぱり同じ白糸が!」
「うわ!」と彦七はそれを聞くと、生気地なくベタベタと地へ坐った。
「エイ!」と右手の藪陰からその時に鋭い掛声が掛かった。
「うむう」と同時に呻き声がした。クルリ体を廻したかと思うと、仰向けに利右衛門は転がった。鋭利な削竹《そぎたけ》が節元まで深く咽喉に差さっている。
「人殺し!」と、彦七はやにわに喚いて飛び上ったが、
それより早く藪陰からまたも同じ掛声がした。……声《こえ》と一|緒《しょ》に彦《ひこ》七も霜の大地へころがった。
削竹が咽喉に立っている。
大阪界隈怪盗横行
後は森然《しん》と静かである。
さっきから今にも泣き出しそうにどんより[#「どんより」に傍点]曇っていた低い空から霙《みぞれ》がパラパラと降って来たが、それさえほん[#「ほん」に傍点]の一|瞬間《
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