?」
「……知らぬが仏とは正しくこの事。存ぜぬこととは云いながら今日が日まで一家の仇赤格子の娘の手下となりうかうか暮らして居りましたこと残念至極に存じます」
「…………」
「妹お袖へお話し下されたお殿様のお話で初めて知りましてござります」
 この時、遥かの海上に当って、吹き鳴らすらしい法螺の音が、夜気を貫いて陰々と手に取るように聞こえてきた。
 一方、こなた離れ座敷では、お菊が、三味線を弾いている。
 と、遥かの海上にあたって法螺の音が響き渡った。
「あッ」と驚いて弾く手を止め、スックとばかり立ち上る。
 ボ――、ボ――、ボ、ボ、ボ――
 それは正しく仲間の合図だ、しかも敵に襲われたという非常を知らせる法螺の音だ。
「さては住吉の海上へ、商船《あきないぶね》に装わせ、碇泊《ふながか》りさせた毛剃丸《けぞりまる》、捕方共に囲まれたと見える。これはこうしてはいられない」
 パッと裳《もすそ》を蹴散らかしバタバタと縁へ走り出たがガラリと開けた雨戸の隙から、掛声もなく突き出された十手!
「南無三!」と、お菊は雨戸を閉じガッチリ閾《しきい》をおろして置いて、今度は窃と足音を忍ばせ、丸窓の側《そば》へ寄って行く。
 細目に障子を開けると同時に。
「ご用だ!」と鋭い捕手の声。
「もう不可《いけな》い。手が廻った」
 お菊は部屋へ帰って来ると、悪びれもせず端然と坐り、またも三味線を弾き出した。

 ドンドンドンドン。
 戸を叩く音が玄関の方から聞こえてくる。
 卜翁は忠蔵の死骸をお袖と一緒に寝かせて置いて自身玄関へ出て行った。
「何人《どなた》でござる?」と忍音に問う。
「西町奉行手付の与力、本條鹿十郎と申す者。至急ご主人に御意得たく深夜押して参ってござる。ここお開け下されい」
「それはそれはご苦労千万。拙者すなわち卜翁でござる」
 こう云いながら戸を開けた。
「いざこなたへ」と自分で導き、玄関脇の部屋へ通す。
「ご用の筋は?」と卜翁は訊いた。
「実は」と本條鹿十郎は、声を低く落しながら、
「住吉の海上におきまして海賊船を見付けましてござる」
 こう云って卜翁の様子をうかがう。
「何、住吉の海上で海賊船を見付けたとな。それは何よりお手柄お手柄。して勿論海賊船は取り抑えたでござろうな?」
「それが……」と本條鹿十郎は、云い悪《に》くそうに云うのであった。
「取り逃がしましてござります
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