、そういう光景を眼の中へ入れた、醍醐弦四郎はそう思ったが、しかし、弦四郎の身にとって見れば、白河戸郷に内乱のあるのは、まさにもっけ[#「もっけ」に傍点]の幸いであって、内乱の事情などどうであろうと、かかわるところではないのであった。
そこで弦四郎は部下を連れて、盆地を下へ走り下った。
(どさくさまぎれに小枝《さえだ》を攫《さら》おう)
こう思ったからであった。
新しき登場者
さてこういう出来事が、白河戸郷や丹生川平の、二つの別天地に起こっている時、この別天地をつないでいる、花の曠野へ四挺の山駕籠が、浮かぶがように現われて来た。
何者達が乗っているのであろう?
勘右衛門とお菊と弁太と杉次郎とが、駕籠には乗っているのであった。
愛と憎とのもつれ合っている、この四人の男女のものが、どうしてこのように一緒になって、このような所へ来たのであろう?
勘右衛門がお菊を訊問することによって、お菊が勘右衛門の大切にしていた、例の品物を京助の手により、古物商の刑部老人の元へやったということを知ることが出来た。そこで勘右衛門は刑部の家を訪ねた。旅へ向かって立ったという。
そこで勘右衛門は手を尽くして、刑部の旅先を突き止めようとした。
勘右衛門は抜け荷買いをしたほどの男で、異国の事情に通じていたし、長崎の事情にも通じてい、刑部という老人が、長崎辺りの蘭人達と、取り引きをしているということなども、ずっと以前から知っていた。
つまり勘右衛門は刑部老人の、素性《ひととなり》と行動とを知っていたのであった。
したがって刑部老人が、あの大切な品物を持って、どの方へ旅立って行ったかについても、大体見当をつけることが出来た。
(長崎へ行ったに相違ない)
しかしだんだん探って見たところ、飛騨の方へ行ったということであった。
(これは一体どうしたことだ?)
勘右衛門には意外であった。
しかし、それから筋を手繰《たぐ》って、一層くわしく探ったところ、巫女《みこ》の千賀子も刑部老人と一緒に、飛騨の方へ行ったということであった。
そこで勘右衛門は決心をして、飛騨の方へ追って行くことにした。
その時勘右衛門は女房のお菊や、杉次郎や弁太を自分の前へ呼んで、こういう意味のことを話して聞かせた。
「お菊、お前は何にも知らないで、京助の手からあの大切な品を、刑部老人の元へやって、わずかばかりの金に換えようとしたし、杉次郎殿や弁太さんなどは、京助からあの品を取り戻そうとした私を、あんな塩梅《あんばい》に邪魔をしたが、それはいずれもあの品物の、素晴らしい価値を知らなかったからだ。私はお前さん達に正直に云うが、あの品物は今の私の家の、全財産よりも価値のあるものだ。それをお前達はよってたかって[#「よってたかって」に傍点]、私の手元からなくなしてしまった。……今になってはそれも仕方がない。で私はあれを取り返しに、飛騨の方へ旅をすることにした。お前さん達も一緒に行ってはどうか」
こう云われてお菊や杉次郎達は、今さら自分達のやったことを、後悔せざるを得なかった。
そうして彼らは勘右衛門と一緒に、その品物を取り返す旅に、出て行くことに決心した。
とは云うもののお菊などは、飛騨というような山国などへは、こんな機会がなかろうものなら、生涯行っては見られないだろう。よい機会だから行ってみようという、そういう心理に動かされてはいた。
また杉次郎は情婦のお菊が、旅に出かけて行くというので、別れるのが厭だという心持から、一緒に行く気になったのであり、弁太は弁太で行を共にしたら、うまい儲け口があるかもしれない。――そう思って行くことにしたのであった。
勘右衛門にしてからが考えがあった。
(杉次郎や弁太はお菊をとり巻いて、よくないことをやっている。こいつらを江戸へ残して置いては、どんなことをやり出すか分らない。旅へ一緒に連れて出たところで、手助けにも何にもなりはしないが、江戸へ残して置くよりはいい)
で、四人は旅へ出て、辿り辿ってこの曠野へまで、今や姿を現わしたのであった。
(本来あの品は二つある品だ。二つあると飛び離れた価値になる。刑部老人はその素性から、また商売の関係から、あの品物の二つあることを、心得ているに相違ない。その刑部老人が、飛騨の国へ来たのである。ではあるいは飛騨の国に、もう一つの品があるのかも知れない。それを得ようとして来たのかもしれない)
(そればかりか千賀子までも一緒に来たそうだ。千賀子に至ってはあの品物の、どういう品物であることか、どれだけの価値のあるものかを、自分の物のように知っているはずだ。その千賀子が刑部老人と一緒に、この飛騨の国へ来たのである。では、いよいよもう一つの品が、この国にあるものと見てよかろう)
道々勘右衛門はこう思って、好奇心と興味と慾望とを起こし、自分こそ失った例の品と、そのもう一つの品物とを、手に入れようと希望したりした。
こうして今や曠野まで来た。
と、一方から大勢の者が、この四人の駕籠の方へ、群て歩いて来るのが見られた。
白河戸郷の方角から、その大勢の者は来るのであった。
洞窟の奥の神殿の前に佇んでいる男女があった。宮川茅野雄と浪江とであった。
神殿の扉がひらかれていて――開いたのは茅野雄その人なのであったが――内陣のご神体が見えていた。
六尺ぐらいの異国神の像で、左の一眼が鯖《さば》色の光を、燈明の火に反射させていた。
それだのにどうだろう、右の一眼は、盲《めし》いたままになっているではないか。眼窩《がんか》は洞然《ほこらぜん》と開いているが、眼球が失われているのである。
アラ神であるということは、多少とも回教を知っている人には、看取されたに相違《ちがい》ない。
そのアラ神を囲んでいる厨子《ずし》が、宝石や貴金属や彫刻によって――アラビア風の彫刻によって――精巧に作られちりばめられてあり、厨子の前方燈明の燈《ひ》に――その燈明の皿も脚も、黄金で作られているのであったが――照らされているありさまは、神々《こうごう》しいものの限りであった。
神殿は石段の上にあり、その石段もこの時代にあっては珍らしい大理石で作られていた。
しかし建物は神殿ばかりではなく、神殿から云えば東北の辺りに、二棟の建物が建ててあった。いずれも導師が祈祷をしたり、読経を行なう所らしい。
その中の一棟の建物の床から、泉が湧き出して流れてい、その流れの岸の辺りに、黒い色の石が据えてあった。
が、もう一棟の建物の横には、三基の墳塋《はか》が立てられてあり、その前にも燈明が点《とも》されていた。
茅野雄には解っていなかったが、それらの建物や墳塋や泉や、黒石などは回教の本山、亜剌比亜《アラビア》のメッカに建てられている、礼拝堂《ハラグ》に則《のっと》って作られたものであった。
すなわち泉はザムであり、また黒石はアラオであり、墳塋は教主のマホメットと、その子と、弘教者《ぐきょうしゃ》のオメルとの墳塋で、回教の三尊の墳塋なのであった。
そういう建物や墳塋を蔽うて、洞窟の壁と天井とがあったが、壁の面《おもて》にも天井にも、さまざまの彫刻が施こしてあり、いろいろの装飾が施こしてあった。
そういう洞窟の一所に立って、茅野雄と浪江とは神像を眺め、言葉もなく黙っているのであった。
幾人かの人間を切ったことなど、茅野雄の考えの中にはなかった。今にも覚明を初めとして、丹生川平の郷民達が、洞窟の扉を破壊して、ここへ無二無三に殺到して来て、自分達を討って取るだろうという、そういう不安さえ心になかった。
奇怪と荘厳とを一緒にしたような、妙な気持に圧迫されて、押し黙っているばかりであった。
と、浪江の囁く声がした。
「ご神体は贋物なのでございます。ご覧の通り一方の眼だけが、見ひらかれて鋭く輝いております。でももう一方の眼は潰れております。……父上は開いている一方の眼だけを、手に入れたばかりでございました。その一つの眼を基にして、あのご神体を作ったのでした」
「…………」
茅野雄は返辞をしようともせず、その輝いている一眼へ、恍惚とした眼を注いでいた。
茅野雄は自分の心持が、抑えても抑えても抑え切れないほどに、その一眼を手に入れたいという、慾望に誘惑されるのを感じた。
(あの眼の光に比べては、名誉も身分も財産も、生命までも劣って見える)
茅野雄は深い溜息をしたが、誰かが背後から押したかのように、思わず前へ突き進んだ。
いつか茅野雄は石段を上り、神殿の前に立っていた。
と、茅野雄は腕を延ばしたが、グルグルと神像の首を捲いて、右手で刀の小柄《こづか》を抜くと、神像の眼をえぐりにかかった。
「あ、茅野雄様!」と恐怖に怯《おび》えた、浪江の声が聞こえて来た。しかし夢中の茅野雄の耳には、聞こえようとはしなかった。
浪江はそういう茅野雄を見ながら、体をこわばらして佇んでいたが、うっちゃっては置けないと思ったからであろう、石段を茅野雄の方へ走り上った。
「あまりに勿体のうございます!」
浪江は茅野雄の右の腕に縋《すが》った。
が、すぐに振りほどかれた。しかし浪江は一所懸命に、再度茅野雄の腕に縋った。が、またも振りほどかれた。
超人
しかしそういう夢中になっている、茅野雄の耳へ殺到して来る、大勢の足音や喚き声や、打ち物の烈しく触れ合う音が、聞こえてきたのは間もなくであった。
そうしてその次の瞬間には、宮川覚明と郷民達とが、石段の下まで襲って来たのを迎え、神殿を背後に神像の前に、抜き身を中段に構えた茅野雄が、その足もとに仆れている浪江の、気絶をしている体を置いて、決死の姿で突っ立っていた。
しかしその次の瞬間には、切りかかって来た郷民の二人を、石段の上へ切り仆した茅野雄の、物凄い姿が見受けられた。
全く物凄いと云わざるを得ない。
乱れた髪、返り血を浴びた衣裳、はだかった胸、むきだされた足、そうして構えている刀からは、鍔越《つばご》しに血がしたたっている。が、そういう茅野雄の肩の、真上にあたる背後《うしろ》の方から、例の神像の一眼が、空から下りて来た星かのように、鋭い光を放っているのが、わけても凄く見えなされた。
しかもそういう茅野雄の前には、無数の郷民が打ち物を揃えて、隙があったら切り込もうと、ひしめき合っているのであった。
そういう郷民達の群の中に、ひときわ背高く見えている、妖精じみた老人があったが、他ならぬ宮川覚明で、杖を頭上にかかげるようにすると、
「神殿の扉を無断で開け、アラ神を曝露した涜神の悪人、茅野雄は教法の大敵でござるぞ! 神も虐殺を嘉納なされよう! 何を汝《おのれ》ら躊躇しておるぞ! 一手は正面からかかって行け! 一手は左からかかって行け! そうして一手は右からかかれ!」と、狂信者特有の狂気じみた声で、荒々しく叫んで指揮をした。
それに勇気をつけられたのであろう、三方から郷民達は襲いかかった。
その結果行なわれたことと云えば、正面から襲って行った一手の勢が、茅野雄のために切り崩され、なだれるように下りたのに引かれて、茅野雄も下へ下りた隙に、左右から襲って行った二手の勢が、段上を占めたことであった。
下へ下りた茅野雄を引っ包んで、郷民達の渦巻いている姿が、こうしてその次には見受け[#「見受け」は底本では「身受け」]られたが、しかしその次の瞬間には、渦巻が左右に割れていた。
と、その割れ目を一散に走って、黒石《アラオ》の方へ行く者があり、やがて黒石の上へ、片足を掛けて休んだ者が見られた。
数人の郷民を切り斃して、そこまで行った茅野雄であった。
「黒石を土足で穢した逆賊!」
すぐに覚明の喚く声がした。
「躊躇する汝らも逆賊であろうぞ!」
またも茅野雄を取り囲んで、人間の渦が渦巻き返った。
しかしその次には全く意外の、驚くべき事件が演ぜられた。
老人の声ではあったけれど、底力のある威厳のある声で、
「極東のカリフ様がおいでなされたぞ! 謹んでお迎えなさるがよろしい!」
つづいて威厳
前へ
次へ
全20ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング