しそれにしても碩寿翁が、さっき方この部屋を覗いた時には、客がなかったはずである。
それだのに今は二人もいる。
これはどうしたことなのであろう?
思うに二人の男と女は、どこか別の部屋にいたのであったが、この時その部屋から忍び出て、この部屋へ潜入したのであろう。
と、この部屋へ一筋の、細い明るい光の縞が出来た。
男が襖をあけたので、隣りの部屋の行燈の火が、隙間から射して来たのであった。
「あッ」と、云う声が突然に起こった。
「大変だ! 割りおる! 二つに割りおる!」
つづいてこう云う声がした。
「汝《おのれ》! 無礼! 覗きおったな!」
間髪を入れず風を切って、物を投げる音がヒューッとした。
しかし、続いて清浄と威厳と、神々《こうごう》しさを備えたような声が、どこからともなく聞こえてきた。
「物は完全に保つがよい! 美しさも神聖さも完全にある! ……碩寿翁、碩寿翁、物をこぼつな!」
この時碩寿翁は刀を抜いて、部屋の一所に立っていたが、その眼は細く開けられている、襖の一方に注がれていた。見れば襖の縁の辺りに、碩寿翁が投げたらしいメスが一本、鋭く光って立っていた。
「…………」
無言で碩寿翁は眼を返したが、反対側の襖を睨んだ。清浄で威厳のある神々しい声が、その襖の奥の方から、碩寿翁へ聞こえてきたのである。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
碩寿翁はワナワナと顫え出した。
「今のお声はあのお方のお声だ!」
(しかしどうしてあのお方が?)
で、碩寿翁はヒョロヒョロと歩いて、襖の方へ寄って行ったが、恐る恐る襖を引きあけた。
空虚! 闇! 人の姿はなかった。
「二組の人間に狙われている! 俺は一体どうしたらいいのだ!」
また佇《たたず》んだ碩寿翁の、足もとに置かれてある小箱から、何と美しく何と高貴な、光が放たれていることか!
その翌日のことであった。四挺の駕籠が前後して、柏屋の門口からかき[#「かき」に傍点]出され、高山の方へ進んで行った。
四方を森林に囲まれているので、丹生川平《にゅうがわだいら》は丘の上にあったが、極めて陰気に眺められた。
切り株に腰をかけながら、話している若い男女があった。
「あなたには大分変わられましたな。昔より陰気になられたようで」
「……でもあなたがおいでくださいまして、陽気になりましてございます。……あなた、お体はよろしいので?」
「いずれも微傷《うすで》ゆえ大丈夫でござる。……が、あのような経験は、拙者、一度で充分でござる」
「何と申し上げてよろしいやら」
「みんな弦四郎めが悪いので」
二人は茅野雄《ちのお》と浪江《なみえ》とであった。
と、背後《うしろ》から声がした。
「まあそう拙者を憎まないがよろしい。……大した悪人でもありませぬからな」
別天地
丹生川平という別天地に、宮川茅野雄と醍醐《だいご》弦四郎とが、一緒に住居をしているとは、ちょっと不思議と云わなければならない。
考えて見れば不思議ではなかった。
茅野雄は丹生川平の長の、宮川覚明の甥であって、覚明の娘の浪江によって、招かれている人物であった。で、弦四郎や、丹生川平の、郷民達に襲われて、その幾人かを切って捨て、馬を奪って大森林を駈け抜け、丹生川平に辿りつくや、覚明をはじめ浪江によって、歓迎をされ無事を祝された。郷民を切ったことなども、間違いの結果であったので、郷民の方でも怨みとは思わず、かえって気の毒がり同情した。
で、茅野雄は無事であった。
弦四郎の方はどうかというに、彼の図々《ずうずう》しさと機智とによって、丹生川平の別天地に、依然として住居することが出来た。
「ははあさようでございましたか。宮川氏には丹生川平の長の、覚明殿の甥でござったか。とんと某《それがし》存じませんでしてな、丹生川平には敵にあたる、白河戸郷の長の娘の、小枝《さえだ》を某奪い取り、丹生川平へ参ろうとした時、宮川氏が邪魔されたので、これはてっきり[#「てっきり」に傍点]宮川氏は、白河戸郷の味方の者と思い、それで某お敵対をいたし、丹生川平の人々へも、宮川氏を討ち取るよう、差図《さしず》をいたした次第でござる。それにしてもあの時は残念でござった。白河戸郷の郷民達に、半ば奪い取った小枝という娘を、奪い返されてしまいましたのでな」
これが弦四郎の弁解であった。
辻褄《つじつま》の合わないところはあったが、しかし確かに丹生川平のために、働いたことは事実だったので、誰もが一応受け入れて、弦四郎をして依然として、丹生川平のこの別天地へ、住ませることにしたのであった。
丹生川平へやって来て、茅野雄が驚いたことと云えば、決して一つや二つではなかった。
従妹《いとこ》の浪江が美しくなり、神々しいまでに霊的になり、だから陰気になったこと。伯父の覚明が訳の解らないほど、不思議な人間に変わったこと。
丹生川平という別天地が、何とも云えない気味の悪い土地で、丘ではあるが日あたりが悪く、四方森林にとりかこまれていたり、随所に洞窟や古沼などがあったり、一つの巨大洞窟の奥に、異国めいた造りの神殿があったり、そういう古沼の岸のほとりや、森林の中などに無数の住民が、家《うち》を作って住んでいたり、洞窟の中にはいろいろさまざまの、諸国から来た病人が、お籠りをして住んでいたり、そういう境地の一所に、堂々としてはいたけれど、暗く寂しく物恐ろしく、覚明の屋敷が立っていたり、等、等、等というような事が、「驚き」の主なるものであった。
茅野雄が、この土地へやって来るや、浪江は最初から驚喜したが、覚明の方は、それほどでもなく、
「うむ、茅野雄か、何と思って来たぞ?」
こんなように云ってから形をただし、
「俺《わし》に関しての行動に、一切干渉してはならない。洞窟の奥の神殿へは――わけても、神殿の内陣へは、決して入って行ってはならない。――が、これだけは頼んで置く、白河戸郷は丹生川平の敵だ。で、どうともして滅ぼさなければならない――滅ぼす策を講じてくれ」
こう云って茅野雄を迂散そうにさえ見た。
(驚いたな)と茅野雄は思った。
(昔の伯父はこんな人ではなかった。何らか神は信仰していたが、もっと性質が明るくて、秘密など持つような人でなかった。……それだのにどうだろう今の伯父は、山師にしてしかも狂信者! と云ったようなところがある。それにどうだろう伯父の風采は?)
覚明の風采は妙なものであった。切り下げの長髪を肩へかけ、異国めいた模様の道服を着し、刺繍の沓《くつ》を穿いていた。
(それに恐ろしく勿体ぶるではないか)
これも茅野雄にはおかしかった。
覚明は容易に人に逢わず、絶えず居場所を眩ませていた。時あって姿を現わす時には、十数人の侍者に周囲を守らせ、威厳をもって現われた。
そうして茅野雄に対しても、伯父甥として対しようとはしないで、一宗の祖師が一介の信者へ対するような態度で対した。
で、茅野雄はある時のこと、浪江に向かって問いを発した。
「伯父様の奉じている宗教は、回々教《ふいふいきょう》でございましょうな?」
こう問うたのには訳がある。
覚明がお祈りをする時に、こう云うことを云うのであるから。
「健在なれ、万福を神に祈れ、教主マホメットの感謝を神に挨拶せよ、全幅の敬意を表せよ、神は唯一にして、マホメットは教主なりと信ぜよ。信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし」
そうしてこの言葉は回々教《ふいふいきょう》の教典、祈祷の部の中にあるのであるから。
「回々教のようでございます」
こう云って浪江は寂しそうに答えた。
そういう浪江の答えぶりによって、茅野雄は浪江が信者でないことを、ハッキリ感ずることが出来た。
で、茅野雄は尚も訊いた。
「どういう機会から飛騨の山中の、こんな寂しい物恐ろしい、丹生川平というような所へ、伯父様はおいでなされたのでござろう?」
「妾にも解らないのでございますよ。ある日父上にはこう仰言《おっしゃ》って、無理矢理に一家を引きまとめてこの土地へ参ったまででございます。『素晴らしい物を手に入れた。江戸にいては危険である。山中へ行って守ることにしよう』……」
「しかしわずかに五年ばかりの間にこのような建物を押し立てたり、このように信者を集めたり、よく行《し》たものでございますな」
「父は力を持っております。人を魅する不思議な偉大な力を! で、信者達が集まって来まして、このような建物をまたたく間に、建ててしまったのでございます」
「白河戸郷という彼《あ》の土地にも、同じように回々教《ふいふいきょう》の信者が、集まっているようでございますな」
「ええ」と、浪江は苦痛らしく云った。
「それで父上には白河戸郷を、憎んでいるのでございます」
「同宗という誼《よし》みから親しくすればよろしいのに」
「父は反対に申しております。白河戸郷を滅ぼして、彼《あ》の地に立っている神殿のうちの、重大なものを持って来なければ、丹生川平の本尊は、完全であるとは云われないと」
「白河戸郷の長という人は、どういう人物にございますな?」
「父の同門でありましたそうで。そうして父と同じように、何か重大な物を持って、父とほとんど同じ時に、父のように江戸から身を隠して、白河戸郷へ参ったのだそうで」
そう云った浪江という娘は、面長の顔、愁えを含んだ眼、肉感的のところなどどこにも見られない薄手の唇、きゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]で痩せぎすで弱々しそうな体格! 一見人の同情を呼び、尊敬を呼ぶに足るような、そう云ったような娘であった。それでいて一本の白百合のような、清浄な美しさに充たされていて、しかも犯すことの出来ないような、威厳をさえ持っていた。
さて今そういう娘の浪江と、茅野雄とが話していたところへ、醍醐弦四郎が現われて来て、話の仲間へ加わったのである。
「いや貴殿は悪人でござるよ」
茅野雄は磊落《らいらく》の性質から、こだわろう[#「こだわろう」に傍点]ともせずこういうように云った。
「ナーニ拙者は好人物で」
弦四郎も今日は陽気であった。もっともいつもこの侍は陽気で駄弁家で道化者であって、それを保護色にはしていたが。
「たとえば貴殿と浪江殿とが、そのようにいかにも親しそうに、まるで恋人同志かのように、お話をしているのを見ながら、拙者嫉妬をしないというだけでも、好人物であると云うことが、お解りになるはずでござる」
「馬鹿な!」と、茅野雄は苦々しそうに云った。
「浪江殿と拙者とは従兄妹でござるよ。仲よく話すのは当然でござる」
「そうとばかりも限りますまいよ」
どうしたのか弦四郎はニヤニヤ笑った。
「案外親戚というものは、表面仲をよくしていて、裏面では仲の悪いもので」
神殿の中の物?
「そういうものでござるかな」
茅野雄はうるさ[#「うるさ」に傍点]そうにすげなく云った。
が、弦四郎は云いつづけた。
「親戚の一方が出世をすると、他の一方が嫉妬をする。親戚の一方が零落すると、他の親戚は寄りつかない。競争心の烈しいもので。さよう親戚というものはな」
「他人同志でも同じでござろう」
「なまじいに血潮が通っているだけ、愛憎は強うございますよ。さようさよう親戚の方が」
「兄弟などは親戚中でも、特に血の濃いものでござるが『兄弟|垣《かき》にせめげども、外その侮《あなど》りを防ぐ』と云って、真実仲よくしていますがな」
「が、一旦垣の中を覗くと、他人同志では見られないような、財産争いというような、深刻な争いがありますようで」
「が、幸い我らには――さよう、浪江殿と拙者とには――いや拙者と伯父一族とには、そのような争いはありませぬよ」
「御意!」と、弦四郎は道化た調子で云った。
「だからこそ拙者申しましたので、貴殿と浪江殿とは恋人かのように、大変お仲がよろしいとな」
「御意!」
今度は茅野雄が云った。
「大変お仲がよろしゅうござる。その上に貴殿というような、おせっかい[#「おせっかい」に傍点]な人物が現われて、恋人らしい恋人らしい
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