いか。鼻の頭へ汗を掻いて、俺は一体何を云ってるのだ)
で、また一つお辞儀をしたが、
「お別れいたすでござります。ご免」と、云うと部屋を飛び出した。
こうして二人の変な会見は、あっけなく終りを告げたのであったが、しかし碩寿翁にも弦四郎にも、すぐ意外な事件が起こった。
弦四郎の事件から書くことにしよう。
刑部屋敷を出た弦四郎が、上野の山下まで来た時であったが、紗《しゃ》を巻いたような月光の中から、
「あの方もご出立でございます。あなたもご出立なさりませ!」
こういう女の声が聞こえた。
「…………」
で、弦四郎は声の来た方を見た。
巫女《みこ》姿の女が弦四郎の横手を辷《すべ》るようにして歩いて行く。
「おお、あれはあの女だ」
で、弦四郎は見送るようにした。
月の光をヒラヒラと縫って、髪を垂らして、御幣《ごへい》を持って、脚に一本歯の足駄をはき、胸へ円鏡をかけている。衣裳といえば白衣《びゃくえ》であって、長い袖が風にひるがえり、巨大な蛾などが飛んでいるように見える。容貌なども美しいと見えて、月光にさらされた横顔の形は、鼻が高くて額が秀でて、頤が珠のように円味がかっていた。
「
前へ
次へ
全200ページ中56ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング